ー八代将軍吉宗は銀の流失を防ぐためー
日本の産物調査『諸国産物帳』制作を諸藩に命じる


丹羽正伯は本草学者で、日本最初の採薬使である
 
  吉宗が将軍に就任すると、幕府の財政を再建するためあらゆる手段を講じた。そのひとつに薬草の輸入金額を少なくするために、国内産に切り替えたいと考えた。特に朝鮮人参は高価であり、すぐに国内での栽培を命じた。享保五年(1720)に丹羽正伯を採薬使に命じて箱根、日光、富士山、木曽を回らせ、翌年には会津、白河、二本松、福島などの東北を回り薬草を採取させた。採取した薬草は、駒場薬園や小石川薬園に移植して育成を命じた。本写真

  丹羽正伯は享保七年(1722)に幕府医師として三十人扶持で召し抱えられた。下総(千葉)の薬園15万坪の経営を任された。また、享保十二年(1727)には、庶民向けに治療法と薬種を解説した『普救類方』(ふきゅうるいほう)を刊行した、丹羽正伯と林良適の編集で幕府刊行・全12冊である(国立公文書館蔵)。また、国立国会図書館には、『管刻 普救類方』があり見ることが出来る。
 
  下記に一部を紹介する。本の図版は狩野即誉とあるが詳細は不明である。おそらくは吉宗の絵を補佐した木挽町狩野家栄川古信(ひさのぶ)の弟子筋ではないかと思う。官行は東都書肆組合の松曾三四郎、出雲寺和泉掾、升屋五郎右衛門、須原屋治右衛門、満屋清衛門、小川彦九郎、和泉屋儀兵衛の七名である。(参考・『彩色 江戸博物集成』平凡社 1994年刊)


本写真
『官刻 普救類方』丹羽正伯・林良適編纂、画・狩野即誉 国立国会図書館蔵 

丹羽正伯(1691〜1756)伊勢松坂の医家に生まれる。享保七年(1722)幕府医師になる。林良適(1695〜1731)は、享保七年(1722)に小石川養生所の幕府医師である。

『庶物類纂』は、本草学者であり丹羽正伯の師匠でもあった稲若水(1655〜1715)が未完で死亡したため、吉宗より完成を命じられた。この本は、中国の本から博物関係の事柄を集め編集することにある。この編集の過程で丹羽正伯に日本の産物の百科を作りたいという構想が生まれ、『「庶物類纂」の編集に必要なため、正伯から所領に対してその他の産物の俗名と形状について照会があるかも知れないから、そのときは正伯へ回答するように領内の配下に申し渡しておくように』と言う通達が出されたのを、拡大解釈して丹羽正伯が『産物帳』を始めたのではないかと安田 健氏は推定しておられる(参考・『彩色 江戸博物集成』平凡社 1994年刊)。

『産物帳』は、丹羽正伯が将軍の命令のように偽装して、各藩に日本各地の動植物全てを調査して書き出すように要請した。(詳細は吉宗の項)  諸国からは享保二十年(1735)から元文元年(1736)にかけて集まった。正伯は集まった産物帳に写生図と絵図の添付を求め、各藩は二〜三年をかけて要請に応えた。 元文四年(1739)には完結した。しかし残念なことにこの産物帳の元本は失われてしまった。

  これは産物帳が、幕府の正式な通達でないため幕府の正式な記録もない。吉宗が産物帳を目にしたかどうかの記録もない、産物帳は丹羽正伯の家に保存されたようであるが、その後すべてが散逸した。現在残されているのは、各藩が保存した提出した産物帳の控えである。

丹羽正伯の日記 薄紙が張り込んである、産物帳から書き写したものである。

『丹羽正伯物産日記』国立国会図書館蔵 拡大表示
 張り込んである薄紙、各藩への指示の控えか、物産帳からの模写か分からない。

元文三年(1738)五月、丹羽正伯は『庶物類纂』の残り全てを完成して幕府文庫に納め、吉宗から銀百枚を褒美として頂いた。その後、『庶物類纂』増補を完成したのち宝暦六年(1759)に死亡した。
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