ー八代将軍吉宗が復活させた、将軍だけに許された権威「鷹狩」ー
   


 ●鷹狩りの廃止をした綱吉、復活させた八代将軍吉宗…八代将軍吉宗の鷹狩

 
  家康に始まり、家光と鷹狩りの好きな将軍が続いたが、「生類憐れみの令」を命じた六代将軍綱吉(右写真) は鷹狩りをやめた。飼育されていた鷹は伊豆諸島で放鳥されたそうである。
その六代将軍綱吉が薨去し、次の七代将軍家継も死去した。

  八代将軍吉宗は将軍に就任すると正徳6年(1716)直ぐに「鷹狩」を復活させた。享保元年(1716)10月には『御留場』を再指定して、江戸十里四方を鳥や動物の威嚇や殺生を禁じた地域とした。同年11月には、幕府任命の鷹師(鷹匠)を置く、その組織は頭に戸田勝房を任命し、その配下に鷹師同心上役2名、見習い3名、鷹師同心33名を一組とした。また別組として頭に小栗 正を任命、その配下に鷹師23名、上役3名、見習い2名、鷹師同心33名を決めた、両組合計で120名の人数になった。二組の鷹部屋で飼育する鷹は、およそ50羽、合計100羽になった。鷹匠は千駄木組と雑司ヶ谷組の二組であった。
 
  鷹場の巡回と支配を行う「鳥見役(とりみやく)」を定め、鳥見組頭1名、配下に8名の鳥見役を置いた。鷹師と鳥見役は若年寄大久保常春の支配となる。
  鷹狩りが復活すると弘前藩津軽家は24年ぶり鷹献上を再開する。そして、享保2年(1717)に吉宗の初めての鷹狩り「鷭御成」が亀戸・墨田川河畔で行われた。倹約を目指した吉宗にとって家康政治を範とする鷹狩だが、幕府財政の逼迫のため規模を縮小して行った。そのため江戸近郊の馬込村・新井宿・不入斗付近でも行われた。鷹狩りは古来より君主の権威見せる儀式であり、日本だけでなく草原の覇者モンゴル帝国でも権威の象徴となっていた。吉宗は権威の復活と尚武奨励を込めて鷹狩りを復活させた。

鷹狩りは何故支配者のものか
 
鷹は元々自然では、自分より大きな鶴を襲うことないと言われる。その鷹を飼い慣らし、鶴など大型鳥類を襲わせるように調教することが、将軍の権威を見せることになると考えられた。

御留場に指定された武蔵・相模・下総・常陸の21郡
 
  享保2年(1717)9月15日、武蔵国内の沼辺・世田谷・中野・戸田・平柳・八条・葛西・品川の9ヶ領を「御留場」と位置づけ、「右之場所より四五里之間、鳥おどし不申様」と決め、鳥の保護にあたった。
 
享保年3年10月、吉宗は「御留場」の名称を「御拳場」(おこぶしば)と替え、葛西、岩淵、戸田、中野、品川、六郷の六筋を指定した、691カ所の村が御拳場になった。これにより江戸五里四方は事実上の禁漁区となった。この「御拳場」を御鳥見役が見回り支配するのである。鳥見役は組頭一名、鳥見役は八名であるが、元文4年(1739)に増員され鳥見役は35名となった。鳥見役は、大名屋敷・旗本屋敷・寺社・幕府領などどこでも立ち入ることが許されていた、このため御庭番と同様に動静を監視する役割があったと言われる。徳川時代も平和な中期以後には、鳥見役が大名屋敷になどに入り込み、難癖を付け袖の下を暗に要求する不正が多くなった。

 
  「御拳場」は将軍の権威演出するため色々な名前をつけた。「御上場」は将軍が上がる場所、「御召場」は将軍が立ち寄る場所、また、休息や昼食のため立ち寄る「御小休・御膳場」、「御立場」は周りを見渡す場所などと言われた。(参考『鷹と将軍 徳川社会の贈答システム』岡崎寛徳著 講談社 2009年刊)

大田区にも鷹の餌を飼う「餌場」があった。

  新井宿  大田区の鶴狩場と八代将軍吉宗治世の狩場 左写真は大田区の黒鶴神社である。将軍家が同地で鷹狩りをする時には 、将軍の名代として代参があったと伝わる。(『新版 大森風土記』杉原庄之助著 昭和10年刊 私家本 太田図書館蔵)


右の絵図は江戸近隣の「御狩場」 を表した地図である。下の白い部分が品川筋(大田区)部分である。堀江家文章「御城より五里四方鷹場惣小絵図」首都大学東京 図書情報センター蔵  詳細は拡大画面にあります。



「十組盤ー鷹狩香」
 江戸中期頃まで遊ばれたと伝わる香道の組香、香を聞いて香の名前を当て前へ後ろへと進めゲーム。室町時代頃よりあり、王侯の鷹狩りとして十組盤として残る。詳細を見る


鷹を訓練する場所「御捉飼場(とりかいば)」
 
  ここで鷹を訓練した、餌は犬や鳥であった。鷹は弘前藩津軽家より吉宗に献上されており、津軽藩が鷹の献上を中断してから24年ぶりのことである。また他の大名も鷹を献上した。また、鷹は権力者(将軍家)からの贈答品として外様大名や譜代大名、御三家に送られた。家康は徳川の記録『徳川実記』によれば鳥類贈答は34回にのぼるという。(参考『鷹と将軍 徳川社会の贈答システム』岡崎寛徳著 講談社 2009年刊)

鷹の餌は何か…膨大な量の餌
 
  『 鷹が食うのはスズメとハトにかぎられ、鷹は一日にスズメを十羽、ハトを三羽を食った。鷹は二組で百羽だから、年にするとおよそだが、三十六万五千羽、ハトを十万九千五百羽、合計四十七万四千五百羽を食った。鷹の胃袋はすさまじい。』、あまりの多さに専門の捕獲人を採用する、御鷹餌鳥請負人8人が任命され、彼らは餌差(殺生人)に鑑札を与えハト・スズメを捕獲させた。(参考『縮尻鏡三郎 川面に揺れる朧月夜』佐藤雅美著 講談社文庫)また、江戸時代最初の頃は餌として犬が与えられたという、後に鳥になった。


写真 鷹の絵 写真 鷹の掛け軸
画中には「陸奥守殿より献上 赤婦生ノ地取」とある。弘前藩津軽家から献上された鷹を、御用絵師狩野栄川古信(1716〜1731)が描いた下絵か。木挽町狩野家5代目。
『御鷹生地取_上巻』絵・狩野古信 江戸時代 東京国立博物館蔵

『有徳院加筆鷹画草稿』絵・狩野古信 江戸時代 東京国立博物館蔵 
狩野古信 詳細

 ー今も地名で残る職業の「鷹匠」とは何かー
   

鷹匠(たかじょう)
 
  鷹好きの家康は、明確な鷹匠の職制を造ってはいない。やはり八代将軍吉宗が享保元年(1716)に鷹匠頭二名、鷹匠組頭2名、鷹匠十六名、同見習い六名、鷹匠同心五十名を二組として復活させた。若年寄の支配下に置き、千駄木と雑司ヶ谷に鷹部屋を置いた。ここで鷹の飼育や訓練が行われた。鷹匠が訓練した鷹を使うのは将軍である。落ち度がないように鷹匠は神経を使ったことであろう。

飼育される鷹は、オオタカが一番多く4割近くを占め、二番目がハイタカの3割 ほどハヤブサは1割ほどであった。


葛飾北斎団扇絵「鷹」



「権八と小紫」絵・玉川文浪 版元・江崎屋吉兵衛 (注)玉川文浪としているのは、ロシアのプーシキン美術館である、詳しいことは不明である。文浪は江戸後期の浮世絵師で喜多川歌麿をまねた画風で知られる。東京国立博物館蔵 

上の写真は葛飾北斎の団扇絵、鷹であるが空中を飛ぶ難しいポーズを選んでいる。


 ー喜多川歌麿の狂歌絵本(歌合)『百千鳥狂歌合』(ももちどり)の鷹ー
 
狂歌絵本 百千鳥の鷹
『百千鳥狂歌合』絵・喜多川歌麿 版元・蔦屋重三郎 寛政初年(1789)彩色摺 
大本(おおほん)二帖(B5判大学ノートサイズ)
ボストン美術館所蔵


狂歌絵本 百千鳥 鷹の目 
喜多川歌麿の代表的『狂歌絵本』三部作

 1. 『画本虫撰』、2.『潮干のつと』、3.『百千鳥狂歌合』から『百千鳥狂歌合』の鷹である。歌麿と言えば美人画で有名であるが、どうしてどうして観察眼が鋭く、動植物もすばらしい。左のアップ、鷹の目もすばらしい。また、一説では狩野派に絵を学んだとも言われる、この狂歌絵本『百千鳥狂歌合』を見ると自然の描き方に、この説を否定できない事を感じる。
他の百千鳥狂歌合の絵を見る。



『鷹』絵・喜多川歌麿、年代等詳細は不明

  おめでたい図柄であるが、拡大画面を見てもらうと分かるが、木に止まる足(右足)が不自然に曲がっている。また、歌麿の構図の癖であろうが、鳥の姿に背景を被せすぎる、頭を後ろの枝から、やや下に外した方が良いと思うが素人の浅はかな見方か。狂歌絵本『百千鳥狂歌合』でも二羽の鳥を被せて見せている


木版画 鷹と鶴
木版画 歌麿  
鶴に飛びかかる鷹二羽である。将軍の「鶴御成」を描いたものであろう。将軍家の鷹狩りでも正月の「鶴御成」はめでたい行事であり、鶴は内裏への献上や御三家や大名への下されものとして鶴が振る舞われた。(参考『鷹と将軍 徳川社会の贈答システム』岡崎寛徳著 講談社 2009年刊)
ー歌川広重の名所江戸百景『深川州崎十万坪』、将軍に復興の願いを託す絵ー
   


江戸名所百景シリーズは、安政2年(1854)に起きた江戸直下地震、いわゆる安政大地震で壊滅的被害を受けた江戸の復興を願った浮世絵と言われる。美しい江戸の名所や街風景を描いたシリーズである。季節ごとに纏め、江戸郊外も含めた名所や風俗までを描いている。広重の江戸へのこだわりを感じる。

幕臣である広重は、祈りを込め将軍の権威である鷹を描いた
 
  やや高い位置から俯瞰する構図も多いが、右の『深川州崎十万坪』は不思議な浮世絵である。埋め立て地である州崎の冬景色を、上空から見つめる大鷹である。広重は江戸幕府の御家人であり定火消同心であった。この絵は様々な解釈がされているようだが、素人(私)の想像では、江戸の復興を鷹に見立てた将軍(幕府)に祈念しているように見える。現在は冬の雪に覆われているが、広大な州崎の埋め立て地に、新しい町屋が広がるであろう。後には復興の春が巡ってくると信じる晩年の広重の祈りに思える。(私見)

名所江戸百景シリーズの一枚、『深川州崎十万坪』である。版元・魚屋栄吉 安政3年から5年の板行。  国立国会図書館蔵


毛利梅園の描く鷹である
 
  江戸図譜の代表的な絵師の一人である。旗本の幕臣である彼は、気品がありいかにも平和な江戸時代の絵である。毛利梅園の図譜詳細を見る。国立国会図書館デジタル化資料
「水仙花_鷹とぬくめ鳥」 歌川広重画 江戸時代 中短冊、東京国立博物館蔵
ぬくめ鳥とは……
1.冬の寒い晩など,鷹(たか)が小鳥を捕らえてつかみ,自分の足を温めること。また,その小鳥。翌朝,鷹はその鳥を放し,その飛び去った方向へその日は行かないようにしてその恩に報いるという。 「鷹のとるこぶしのうちの−氷る爪根の情をぞ知る/後京極鷹三百首」
2. 親鳥が自分の羽の下にひな鳥を入れて保護すること。 「羽交の下の−,恩愛こそは哀なれ/浄瑠璃・百合若大臣」(大辞林より)
鷲
関根雲停が描く鷲

 
  関根雲停(1804〜1877)は幕末から明治にかけて活躍した画家である。田中芳男が「博物雑誌」第一号に雲停翁小伝として記している。それによると『関根雲亭通称を(栄吉)は、江戸四谷に生れ、幼い頃から体質が虚弱で絵を好み、大岡雲峰に弟子入りして絵を学び、花鳥図を得意とするようになる。大名旗本は争って雲停に絵を頼み、特に富山藩前田利保はその絵を賞賛した、描かれたものは花卉が多く、本草家(当時の植物学者)にも重用された、外国人に寄贈するために絵を描くこともあった。』質素な身なりを気にせず、身分の高い人の前でも平然と植物画や生物画も描いたが、その絵は写実により正確で素晴らしく、大名・旗本などからの注文が絶えなかったという。花鳥画の一枚絵は、裕福な町民の掛け軸となったようである。左の下絵も正確で素晴らしい。
 東京国立博物館蔵

参考図書
 『鷹と将軍 徳川社会の贈答システム』岡崎寛徳著 講談社 2009年刊
 『新版 大森風土記』杉原庄之助著 昭和10年刊 私家本 太田図書館蔵
 『太田区史 中巻』 (第五節 品川筋御鷹場 根崎光男筆)新倉善之編 大田区刊 平成4年
 『小松菜と江戸のお鷹狩り 江戸の野菜物語』亀井千歩子著 彩流社 2008年刊
 『御鷹場』』本間清利著 埼玉新聞社 昭和56年刊
 『多摩と江戸ー鷹場・新田・街道・上水ー』大石学編 けやき出版 2000年刊


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