江戸幕末の雙六 北斎も国芳も描いた デザインも
素晴らしい江戸双六
新選工夫双六 安政四年(1857)8月 版元・芝神明前 和泉屋市兵衛 国立国会図書館デジタル化資料
 
 下記説明、時計回りから場所の説明
亀戸 亀戸天神(天満宮)
梅屋敷 梅屋敷 梅の名所
御殿山 品川の御殿山 桜の名所
王子 王子稲荷神社 狐の嫁入り*欄外にはここで一泊する
上野 上野寛永寺
日本橋 日本橋の橋
隅田川 隅田川の花火
吉原 官許の遊里 *欄外にはここで一泊する
霞ヶ関 大名屋敷
湯島 湯島天神
三田春日 三田春日神社 *欄外には一休となる
芝浦 芝浦の海
猿若町 芝居町
浅草 浅草寺
愛宕山 
上がりの所に天明老人とあるのは作者名か。寸法520×500ミリ
国立国会図書館デジタル化資料所蔵と同じ双六が日比谷図書館に所蔵されていた。全く同じものである。この双六を解説した「双六 伝統的な日本の遊び」では、名所双六としている。双六を見ると江戸名所が16のコマに分かれており、欄外には一泊とか一休と書かれている。選ばれた場所には、現在では無い場所「吉原」や、現在では地元の人しかしらない「三田春日」があり時代を感じさせる。三田春日は春日神社のことであり、明治に吹き荒れた廃仏毀釈で衰退したようだ。
  特に気になるのは、上がり部分に記載されたサイン「天明老人」である、江戸時代に浮世絵師は、錦絵作者だけでなく子供向けの玩具絵にも腕を振るった。歌川国芳には大好きな猫の玩具絵がある。私見だが、このような斬新なアイデアは葛飾北斎ではないかと思う、天明老人とは北斎ではないかと思う。

本 双六本 写真

「双六 伝統的な日本の遊び」小西四郎・寿岳章子・
村岸義雄著 徳間書店刊 昭和49年(1974)
本の内容は、道中双六・ 役者双六・ 子供遊び双六・ 正月双六・ 仏法双六・ 教育双六・ 時事双六・ 名所双六・ 出世双六・ 江戸遊興双六・ 文芸双六・ 官位双六・ 文明開化双六である。

木版画 名所双六
名所双六 拡大表示
木版画 出世双六
出世双六 拡大表示
木版画 仏法双六
仏法双六 拡大表示
木版画 道中双六
道中双六 拡大表示

木版画 教育双六
教育双六 拡大表示
木版画 役者双六

上記の絵双六説明
 役者双六は幾何学的でシンプルな双六である。出世双六は、源義経の一代記を双六にしたものでコマごとに2度サイコロを振る。仏法双六は江戸の名所を巡る双六、地方の土産として人気があったのではないか。道中双六は徳川家茂の上洛する東海道五十三次を双六にしたものか。役者双六は歌舞伎の演目を双六にしたもの。教育双六は事の善悪を歌舞伎の善玉・悪玉に仮託して教える。妖怪双六は子供の好きなお化けの双六である。役者双六 拡大表示
  上記の双六6点は国立国会図書館デジタル化
資料所蔵。

木版画 百種怪談妖物双六
「百種怪談妖物双六」(むかしばなしばけものすごろく)  中世より人を化かす狐の話はあったようだが、この狐を歌舞伎に取り入れ、当役になったのが初代尾上松助である。彼が怪談もので水中早変を得意とし、それを受け継いだ菊五郎は妖狐から化け猫を演じ、彼の得意芸となった。
 『 鶴屋南北作「独道中五十三駅」文政3(1827)年閏六月)で、まさに双六の絵にある通り、十二単を着た化け猫に扮し、手下の猫を踊らせ、お歯黒をつける演技を見せた。破れた御簾から大きな猫の頭が見える場面もあった。菊五郎は化け猫を繰り返し演じたのでその役者絵も残っている』(「江戸歌舞伎の怪談と化け物」横山奉子著 (株)講談社 2008年刊)、その浮世絵が『東海道五十三次之内白須賀』絵・歌川豊国三代である。
 妖怪の主役は狐から化け猫へ移った、それを如実に表しているのが左の妖怪怪談双六である。上がりには化け猫(白須賀)と手下の踊る姿が描かれている。 妖怪双六は仏教双六の地獄を教えることから変化して派生したようだ。


「百種怪談妖物双六」絵・一壽斉芳員 版元・和泉屋市兵衛 安政5年(1858)9月 国立国会図書館デジタル化資料所蔵  拡大表示


 絵双六の始まり

盤双六 始皇帝

盤双六と絵双六の違い…  
両者は全く別物のゲームである。絵双六は盤双六から発達したものであるが、紙製の絵双六が出ると違う方向に進んだ。
絵双六はその名のとおり、絵の善し悪しが全てである。賽(サイコロ)を振りゲームが始まるが、盤双六が勝負であるのに絵双六は娯楽である。其の種類も多く、使われた双六は破損したりして残らない。それでも国立国会図書館デジタル化資料や東京国立博物館に数多く残されている。私たちの知る浮世絵師たちも絵双六に絵を描いている。それは絵が良くなければ売れないからである。
  江戸時代は、今のように芸術家という概念がなく、広重・北斉・国芳という大家でさへ双六絵を絵がいている。

秦の始皇帝が女官の競う盤双六を見ている、絵・鈴木春信 東京国立博物館蔵

『双六は、奈良時代に中国から渡来したといわれるが、江戸中期までは、盤双六というものである。二人が対座して、それぞれ、黒白十五個の駒をもち、盤面の目に並べ、二個の賽を竹筒に入れて振り出して、駒を進め、相手の線内に早く入れた方が勝ちというゲームである。
 この盤双六が、紙製に絵入りのものに変わり始めたのがは、万治、寛文頃の仏法双六からであるが、絵双六という形式が成立するのは、羽川珍重の「松の内の二人双六」が作られた享保前後からである。それでも、はじめは、一色摺りであり、宝暦から明和にかけて、紅摺絵になり、錦絵になり、しだいに華麗な多色摺りへと発展したのであろう。』(「近世美の架け橋」瀬木慎一著 美術公論社 昭和58年(1983)刊) 

  別説によれば、絵双六の始まりは江戸期寛永14年頃(1637)としている。キリスト教が禁止され、島原の乱が終わって国が落ち着き仏教を民に教えるために、絵を利用して仏教を教える仏法双六が使われたという。これはキリスト教の教えを、イコンを使って布教した方法と同じである。
  絵双六は別に「飛び廻り双六」とも言われ、サイコロの数で進んだり、マスを飛び越えたり、後退するゲームである。 およそ幕末頃に作られた道中双六は、絵双六の定番でありあらゆる種類が作られた。絵双六は時代の雰囲気を色濃く反映している。正月には子供も遊べる道中双六が使われた。幕末頃には多色摺の錦絵は歌舞伎役者の役者双六を生み、東海道五十三次は風景の名所双六を生んだ。
 
  明治維新は新しい双六である文明開化双六を生み、時事双六、教育双六も新しく生まれ変わったであろう。絵双六が流行ったのは幕末から明治初期ではないか、明治中頃には戦争双六が生まれ、出世双六も明治の立身出世を反映したものである。「末は博士か大将か」である、末は人生の上がりである。また、明治には印刷された絵双六も生まれ景品や教育目的に使われた。正月には絵双六などで遊ぶことが正月風景になった。双六は雑誌の付録となり、昭和中頃まで普通に社会現象であった。
 
上記写真の絵双六は江戸時代のものであり、全て国立国会図書館デジタル化資料所蔵である。双六2.


 ●東京国立博物館・ http://www.tnm.jp/  
『絵すごろく 生い立ちと魅力』山本正勝著 (株)芸艸堂 2004年刊