ー北斉の現実と精神世界が同居する、諸国名橋奇覧シリーズ。あの世とこの世を繋ぐ橋ー
 
「諸国名橋奇覧 飛越の境つりはし」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)、天保4年から5年(1833-4)
版元・西村屋与八。横大判錦絵26.1×37.3センチ 東京国立博物館蔵
 

『諸国の橋を主題としたシリーズ。
  「富嶽三十六景」「諸国瀧廻り」の成功を受け、同じ版元西村屋与八から出されたシリーズ、中略 本シリーズの特徴には、平安時代の歌物語「伊勢物語」を主題とした「三河ノ八ッ橋」のような「古図」と、天保4年(1833)、安治川を浚渫した土砂を積み上げて出来た「天保山」のような新名所が同居していること。また、北斉画における晩年の静謐さを伴った空間表現の兆しが見えることが挙げられる。』(『別冊太陽 日本のこころ174 北斉決定版』平凡社 2010年刊)
 橋は古来より、この世とあの世を結ぶ役割を持っている。神域に入るときは身を清め橋を渡る、神社に見られる小さな太鼓橋も身分の高い貴人にしか渡ることを許されなかった。また、物語の世界でも橋を切って落とし、難を逃れる話が多い、大田区大森にも「涙橋」(大森)があり、そこで見送りの人と別れた、橋は人生の分岐点に現れる。上記の絵は、飛騨(現在の岐阜)から越中(富山県)に国を超えて渡る釣橋である、「堺つりはし」とは国境の堺(国境)を暗示している。対岸に鹿がおり、そこは桃源郷のイメージかも知れない。


「諸国名橋奇覧 三河の八ッ橋の古づ」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)、天保4年から5年(1833-4)版元・西村屋与八。横大判錦絵26.1×37.3センチ ボストン美術館蔵。拡大表示

  現在の知立市で、東海道五十三次の39番目宿「池鯉鮒」(ちりふ)である。ここに在原業平が愛でた「カキツバタ」の庭がある。北斉の頃にはなくなっていたが、彼は想像でカキツバタの庭を巡る回遊する橋を描いた、八ッ橋の名にちなんで橋を曲げたらしい。

「諸国名橋奇覧 足利行道山くものかけはし」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)、天保4年から5年(1833-4)版元・西村屋与八。横大判錦絵26.1×37.3センチ ボストン美術館蔵。拡大表示
 
栃木県足利市にある行道山(442メートル)にある浄因寺は、和銅7年(714)。行基が開き、空海を二世とする関東四霊場の一つ。画面は、断崖上の茶室「清心亭」と本堂をつなぐ「天高橋」を中心に霊雲がたなびく。(『別冊太陽 日本のこころ174 北斉決定版』平凡社 2010年刊)


「諸国名橋奇覧 摂州天満橋」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)、天保4年から5年(1833-4)版元・西村屋与八。横大判錦絵26.1×37.3センチ 東京国立博物館蔵 拡大表示

「諸国名橋奇覧 かめいど天神たいこはし」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)、天保4年から5年(1833-4)版元・西村屋与八。横大判錦絵26.1×37.3センチ ボストン美術館蔵。拡大表示
 
現在の江東区亀戸のある菅原道真を祭る天神社である。北斉は風景を自分なりに描く特徴がある。太鼓橋も高く、約2倍ほどの高さがある。また、神秘性を感じさせるために、狭い背景の省略により雲を描き広く見せた

「諸国名橋奇覧 すほうの国きんたいはし」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)、天保4年から5年(1833-4)版元・西村屋与八。横大判錦絵26.1×37.3センチ パブリックドメイン 拡大表示 
 
  現在の岩国市の錦川に架かる橋、ほぼ200メートルの川幅に掛けるため、中国杭州の西湖にかかる橋を参考に作られた。石で造られた橋脚が特長である。日本三名橋に挙げられる。 他の絵と比べると構成があまい。
 

「諸国名橋奇覧 山城あらし山吐月橋」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)、天保4年から5年(1833-4)版元・西村屋与八。横大判錦絵26.1×37.3センチ ボストン美術館蔵。拡大表示
 
  有名な京都の桂川にかかる橋、特に嵐山にかかる月を愛でる橋として、亀山上皇が賞賛、渡月橋と言われた。 背景に嵐山が見える。

「諸国名橋奇覧 東海道岡崎矢はぎのはし」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)、天保4年から5年(1833-4)版元・西村屋与八。横大判錦絵26.1×37.3センチ パブリックドメイン 拡大表示
 
  矢作橋(やはぎはし)と言われ、江戸時代では最長の橋である。北斉は最長の橋のイメージを出すためか、高さと長さを強調している。岡崎は幕府にとって重要なため譜代・親藩大名が治めた。そのことを暗示するのか、橋を渡っているのは大名行列である。
御上洛東海道の岡崎を見る
 

「諸国名橋奇覧 ゑちぜんふくゐの橋」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)、天保4年から5年(1833-4)版元・西村屋与八。横大判錦絵26.1×37.3センチ 大英博物館所蔵 拡大表示
 
  柴田勝家が足羽川に掛けた橋は、 半石半木の変わった橋である。橋の南側は笏谷石で造られ、北側は木製である。絵中の右側の色が変わった部分が石性の部分である。(南側)北斉は、その違いをはっきりと描いている。北斉は資料を読んで描いたと言われ、勉強家である。別名九十九橋とも言う。


ボストン美術館

「諸国名橋奇覧 かうつけ佐野ふなはしの古づ」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)、天保4年から5年(1833-4)版元・西村屋与八。横大判錦絵26.1×37.3センチ ボストン美術館蔵。拡大表示
 
  現在の群馬県高崎にあった鳥川を渡る船橋である、 万葉集(巻14)では、上野国の佐野を謳った歌が四首確認されています。有名なのは、藤原定家の『駒とめて袖うち払ふかげもなし 佐野の渡りの雪の夕暮』、北斉はこの歌にちなんで描いたと言われる。(『別冊太陽 日本のこころ174 北斉決定版』平凡社 2010年刊)(注、新古今和歌集 巻6ー671・定家の誤り)、また、佐野は和歌山県新宮市佐野ではないかとの説もある。

 元来、船橋は急流で橋が架けられないためか、江戸防衛のため橋でなく船橋にした防衛上の理由です。日光街道の金町松戸の船橋、東海道六郷渡しなどが知られ、「六郷の渡し」に 船橋が作られたのは、八代将軍吉宗に見せるためのゾウを渡すためと、明治天皇が江戸に入るため官軍に護られ行軍した、2回しかありません。(『金町松戸関所ー将軍御成と船橋ー』葛飾区郷土と天文の博物館 2002年刊)


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