天明3年(1783)爆発的に流行した狂歌喜多川歌麿の狂歌絵本について



喜多川歌麿の才能を見いだした蔦谷重三郎。
蔦重は江戸の狂歌サロンに関わり、歌麿を「筆綾丸」の狂歌名でサロンに引き込むのである。歌麿にも狂歌読みの才能があったのであろう、サロンに溶け込み、太田南畝(おおたなんぽ)の狂歌黄表紙の挿絵を担当するのである。彼は狂歌サロンの中心的存在であり、認められる事は歌麿の柔軟性を示す事柄であろう。上の錦絵を見ると、後の大首絵歌麿の美人画を描けるとは思えない。線も固く、構成も上手くない。「青樓十二時 續・巳ノ刻」(東京国立博物館所蔵所蔵)
『歌麿 抵抗の美人画』近藤史人著 朝日新聞出版 2009年刊。

狂歌流行の中から生まれた絵入狂歌本……
 
 狂歌
とは、短歌の形式に滑稽や諧謔を詠み込んだものである。時代世相を色濃く反映するため、現代の私たちから見ると理解できない狂歌が多い。私が上手いと思ったのは次の一首である。
  ー 百両を真綿に包んだ芋がくるー
時代劇好きなら分かるように、江戸時代には家を存続するために養子縁組が盛んであった。この歌は、良い縁組みに娘をやりたい親が「 持参金を百両持たせるから貰ってくれ…」と言う場面である。金(かね)で首をジワジワ絞められる感じである。江戸の法律(御定書)では離縁するときには持参金を返さねばいけないのである。ために、芋(醜女…すみません差別用語です)とは別れることが出来ないのです。

  江戸狂歌の大流行は天明3年(1783)に始まる、『 万載狂歌集』(四方赤良編)、『狂歌若菜集』(唐衣橘州編)、天明6年(1786)には絵入狂歌本が三冊、一つは歌麿の『絵本江戸爵(えどすずめ)』である。これら全ては蔦谷重三郎から刊行された。歌麿が一人で画を描いた狂歌本は7種ある。『春乃色』(寛政六年)これらの狂歌本の画は、後の歌麿の大画面肉筆画『雪月花』を彷彿させる緻密な画面構成が見える。

天明3年(1783)は田沼時代であり、地方では浅間山が噴火して天変地異が起こるなど、波乱の前兆が起きた頃、江戸では芝居小屋に人が押し寄せ、吉原では幕府の高官が花魁を妾にするなど庶民・町民も浮かれ回った狂乱の始まりである。狂歌サロンは身分を越えた場所となった。蔦谷重三郎も狂歌サロンと共に飛躍して、わずか10年で地本問屋・丸屋子兵衛の店を買い取り、日本橋通油町に進出したのである。この頃より錦絵も手がけるようになり、その一つが蔦屋からの処女作上記の錦絵である喜多川歌麿の『青楼仁和嘉女芸者部』(天明3年)シリーズである。
 しかし明けて天保4年(1784)に政変が起きる、田沼意次の嫡子で和嘉年寄りの意知が切りつけられ数日後に死亡する。また、天明の大飢饉が起こり悲惨な時代となる。田沼意次も失脚し松平定信が老中になり、狂歌サロンも陰りが見えた。政情も不安の中、天明8年(1788)に生まれたのが喜多川歌麿の狂歌本『画本虫撰』(えほんむしえらみ)である。(参照・『歌麿 抵抗の美人画』近藤史人著 朝日新聞出版 2009年)2015.05.12

『画本虫撰』蔦谷重三郎版 天明8年(1788) 彩色摺絵入狂歌本 2帖 27.1×18.4センチ 上巻10丁(序1丁半、見開き図8図8丁、白半丁)、下巻9丁(白半丁、見開き図7図7丁、広告・刊紀半丁、跋1丁、裏表紙見返しに広告貼付)。
狂歌は恋のこころの戯れ歌であるが、何より喜多川歌麿の絵が素晴らしい、また、それを見事に仕上げた彫師・藤一宗(とういつそう)と摺師の技が凄い、彫りは幕末にかけて発達し、1ミリに3本の髪の毛を彫ることが出来たと言われるがそれを証明するようである。『画本虫撰』ページへ

『潮干のつと』蔦谷重三郎版 寛政1年(1789)彩色摺絵入狂歌本 1丁 27×18.9センチ 全10丁(序1丁、跋・刊記1丁)36種の貝を詠み込んだ36人36首を集めた「貝合」とも言うべき狂歌1集。歌麿は出来具合に自信を覗かせる「自成一家」の印を押している。『潮干のつと』ページへ
『百千鳥狂歌合』蔦谷重三郎版 寛政2年頃(1790)彩色摺絵入狂歌本 2帖 25.5×18.9センチ 前編10丁(序1丁、見開き図8図8丁、広告・刊記1丁)/後編9丁、見開き図7図7丁、こうこく・刊記1丁)『百千鳥狂歌合』ページへ

狂歌ブームの終演
 
  狂歌ブームの中核をなしたのは、大田南畝を始めとする幕臣達であったが、出版統制や締めつけで狂歌から手を引いていった。特に恋川春町の『鸚鵡返文武両道』(おうむかえしぶんぶりょうどう)が、幕府の怒りに触れ恋川春町の不可思議な死が大きな影響を与えたと思われる。蔦谷重三郎や喜多川歌麿も定信の改革を脅威と考えた、狂歌本などの出版も減り歌麿も錦絵の制作に手を染めるようになる。

歌麿が身の危険を感じ江戸を逃げ出した、蔦谷重三郎がお上に捕まり罰を受けたからである。栃木の狂歌仲間である豪商・善野喜兵衛を頼り栃木に逃げた。ここで大画面の肉筆三部作を制作した。
 1.【品川の月】米国・フーリア美術館蔵サイズ:147.0cm×319.0cm(横長)制作時期:天明末期の8(1788)年頃。

 2.【吉原の花】米国・ワズワース・アセーニアム美術館蔵サイズ:186.7cm×256.9cm(縦長)制作時期:寛政初期の3-4(1791-2)年頃

 3.【深川の雪】岡田美術館蔵サイズ:198.8cm×341.1cm制作時期:享和2(1802)年から文化3(1806)年頃
この肉筆三部作の制作をする事で着想を得た、歌麿特有の洗練された「美人大首絵」が生まれたと言われています。

『喜多川歌麿「深川の雪」は、「品川の月」(米国・フリーア美術館蔵)、「吉原の花」(米国・ワズワース・アセーニアム美術館蔵)とともに、「雪月花」三部作として知られる歌麿肉筆画の最高傑作です。まず驚くのは、縦199p×横341pにも及ぶその大きさです。掛軸画では考えられない巨大な画面に、総勢27名の人物たちが生き生きと描かれており、晩年になっても、なお衰えない歌麿の真価が発揮されています。

「深川の雪」は、歌麿が栃木に滞在した際に制作されたと伝えられますが、長らく行方が分かりませんでした。実に66年ぶりの公開となる記念すべき展覧会を、ぜひご覧ください。』岡田美術館 特別展示 再発見 歌麿「深川の雪」パンフレットより

岡田美術館所蔵 『深川の雪』
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