ー下丸子蓮光院にある大名屋敷門の藩名場所の謎を探る
(注)下に全体目次が有ります
 


大田区下丸子の「寿福院 蓮光院」に大名屋敷門がある。もと西馬込中丸の豪農河原家が所有していたが、昭和14年頃(1925)に大田区に寄贈され、下丸子の蓮光院門前に移築された。残念なことに、門を所有していた藩名(江戸時代)が不明で詳細がわからない。江戸時代の有職故実
『青標紙』によれば、門の格式から5万石以下の大名屋敷門であることは疑いがなく、このクラスの大名屋敷門は、現存数が少なく極めて貴重である。昭和39年(1964)4月に東京都指定文化財に認定された。2015年、目次が下にあります。



裏側から見た大名屋敷門 拡大表示

蓮光院の大名家屋敷門  

門番のいた片番所(左側のみ)

櫻の一枚板・扉

梁部分
門の梁部分

門上部の不思議な開口部
写真 門

門から見た連光院本堂である、昔の大名屋敷も、このように開けられ屋敷が見えたに違いない。拡大表示


右側から見た武家屋敷門と塀 

寿福院 蓮光院について
  寿福院 蓮光院の開基年代はハッキリしない、享保元年(1716)に火災により焼失、翌年堂宇は再建された。昭和14年(1939)に本堂、庫裡、山門を整備とある。この時に河原家より移築されたらしい。このあたりの詳細は不明である。昭和20年の戦災で山門以外は焼失した、昭和31年(1956)に本堂、庫裡、書院を整備して現在に至る。
 何故、連光院に移築されたか不明であったが、その謎が氷解した。大田区史によれば、連光院は池田藩の菩提寺であったことから、池田藩の大名屋敷門と思われ蓮光院に移築されたらしい。 ただ、池田藩と言うが、池田光政が治めた岡山藩38万石ではなく、その支藩である鴨方藩(2万五千石)か生坂藩(1万五千石)を示すと思われるが、根拠を示す資料がはっきりしないため池田藩関連ではないと考える。

寿福院 蓮光院 真言宗智山派の寺、昭和元年(1926)玉川八十八ヵ所の霊場、第五十九番札所となる。
(住所・大田区下丸子3ー19ー7)


大田区の調査から「蓮光院大名屋敷門」の 建築データー
   『大田区の歴史的建造物』(大田区の文化財 第34集 大田区教委委員会)より

 
  ■
構造 一重、入母屋、浅瓦葺き、中央部に両開き扉、出格子付片番所、片潜門
  規模 桁行八間柱真々 48尺6寸2分(14,730ミリ)
      梁間三間柱真々 17尺2寸4分(5,220ミリ)
      建築年代 江戸時代末期(19世紀中頃)
 
  文化財の特色
  小大名格の武家屋敷門として格調正しい様式を備えており、その構造、形式共によく保存されている。家格に応ずる江戸期の武家屋敷門のうちでも、特に保存例の少ない1〜5万石の小大名格の形式を良く伝えるもので、希少な東京都指定文化財である。

  解説 昭和14年(1939)
頃、馬込中丸の河原氏から寄進移築された。(以下、筆者解説 河原氏が池田山の備前岡山藩池田家、または芝区毛利家(長州府中藩毛利家5万石)、豊後佐伯家2万石(萩毛利家とは血園関係にない)など諸説があるが確かな記載が無く不明である。)
  住所・東京都大田区下丸子3ー19ー7


馬込中丸に住む、元大名屋敷門所有者子孫の河原氏に聞く
  私も河原久輝氏子孫の方に確かめた、『子供の頃(大正時代)、家の入り口に大きな門があったことは覚えている』『戦前に、門は大田区に譲られたと聞いている』との返事である。詳しい由来は不明である。大田区史などでも詳しい資料はない。

 調べてみるとこの大名屋敷門の由来を記した2冊の本が見つかった。本の記述によれば、 明治31年(1898)に芝毛利公家から大名屋敷門を譲り受け、馬込中丸の河原家門前に移築された。昭和14年(1939)にいかなる理由(おそらく第二京浜国道の建設による)か、大名屋敷門は大田区に寄贈され下丸子の蓮光院門前に移築された。昭和39年(1964)頃に東京都指定文化財になり現在に至る。

江戸から明治への大まかな流れ……
 始めるに当たって、判明していることは上記の事柄のみである。明治初年頃の武家屋敷処理問題を乗越へ、大名の屋敷は、何故、明治31年(1898)中頃になり、馬込中丸の河原家に売却移築されたのか。芝区移築から40年以上の歳月がたち、門はふたたび現在地(下丸子蓮光院)に移築された、その理由として、第二京浜国道の建設が関わったと考えている。

 明治初年頃の混乱期というが、江戸時代の大名藩主は華族(貴族)になり住むための屋敷(大名屋敷)を一カ所与えられた。ほとんどの大名が、場所の良い江戸中心部の上屋敷を選んだようである。大々名の屋敷は広大なため陸軍・海軍の駐屯地になり皇居防衛のため中心部に置かれた。現在の皇居二重橋前の広場(公園)には近衛師団の駐屯地があった。まず防衛が優先された。
 
  江戸幕府滅亡により、江戸の人口は、武士の帰国などにより半分ほどに減少したが、京都から天皇が江戸に移り首都となると徐々に歩みがはじまった、明治政府により収公(接収)された大名屋敷は、まず官庁や軍隊が使用する建物となり、次に大臣や高官の屋敷となった。江戸幕府の旗本屋敷も同様に官舎となった。その作業が終わると、周辺の広い大名屋敷や旗本屋敷は、小さく細分化され民間地となり売却された。これが地租改正の始まりである。地租改正による土地税収は米基盤の江戸経済より、飛躍的に明治政府の財政基盤を安定化した。江戸の7割り近くを占めた寺社・旗本屋敷・大名屋敷地が明治政府のものになり、売却して地租を得ることが出来るようになったからである。そのため首都整備に伴い、多くの大名屋敷が整理され民間地になった。

  明治の中頃には、中心部の大名屋敷も民有地化への動きが始まった。華族からも所有する屋敷(土地)を売却する動きが出たのではないかと考える。その流れの中に河原家の大名屋敷門の購入・移築話があったと考えている。

民間人河原氏に大名屋敷門購入の話はどこからきたのか、私は芝増上寺が関係したと思っている。三代将軍家光により、大田区の馬込一帯は、二代将軍秀忠の菩提を弔う玉串料として増上寺に寄進された。江戸時代のほとんどを、馬込村は増上寺領(御霊屋料)として支配された。助郷は免除され、代わりに増上寺のお手伝いを命じられた、領地(馬込村)から村役を出し増上寺の仕事をしていた。詳細は明らかでない。
  最近になり芝増上寺・上野寛永寺などの江戸幕府保護の大寺は、江戸の金融機関として大きな役割を果たしていたと知る。主に大名・寺社(子院)などに金を貸していた。その実務の一端を担ったのが村役であり、その一人が河原氏ではないかと考える。

上記のような経緯から、個人の河原氏宅に大名屋敷門があるとは知られず、昭和14年(1939)、河原氏(子孫)から大田区に寄贈された。その時、大田区も東京も遺存数の少ない貴重な大名屋敷門とは考えずに、ある意味ではぞんざいな扱いであったようだ。その証拠に「大田区史」にも記載が無い。東京都の文化財になったときに始めて外見だけの調査したのではなかろうか。棟札などは不明である。
 
明治になり、江戸幕府から庇護されていた増上寺は困窮を極めた。それは江戸幕府の庇護がなくなり、大名などに貸した貸付金が回収不可能になったからである。増上寺は広大な寺域を占めていたが、それらの土地を処分するなどして、生き残るあらゆる方策をとったに違いない。つながりのあった元大名家にも、貸金回収を含め色々な交渉があったであろう。
 ( 下記に追求過程を示す目次があります。



   

江戸時代の資料『青標紙』で藩の石高を調べる……
  江戸時代後期、大名家屋敷門は幕府より大名格式(石高)による門扉、くぐり戸、門番所の形態が厳格に定められていた。まず石高を推理する。

 江戸時代に武家故実を解説した小型本(折り本)『青標紙』は、天保10年(1839)と11年(1840)の2回発刊された、その中に大名屋敷の門と門番所についての絵が載せている、これは文化6年(1809)に定められていた大名屋敷門の格式を記載したと考えられている。

『青標紙』から大名家石高を推理する。
 右の イラストを見てほしい、「入母屋桟瓦葺、両側に番所、両側の潜り戸は片開き」の大名屋敷門である。写真と比べると蓮光院の門は、5万石以下の大名家屋敷門であると確認できる。また、片番所なので石高も1〜2万石の小大名である事が推定される。

 また『青標紙』には、『右国(持)家の長屋三間梁、万石以上長屋二間半梁、万石以下長屋二間梁の事。但し、表門に家々之紋附る事。国家併に定鑑間・柳間・交代寄合抔に限る。』の記述もある。本の発行部数は300部ぐらいの少部数であった。
  小大名家屋敷門に定紋を附けることもあったようだが、現存する大名屋敷門とその資料が少ないため「家紋」の詳細は分からない。専門家によれば「大名屋敷に紋は付けない事が一般的である」と言う。

また、大名屋敷門の様式規定は、貞享年中(1685)には、イラストのように規定された。『また表門に家紋を付けることが出来るのは、国持大名か、帝鑑柳間交代寄合の家格に限られた』(『江戸と江戸城』内藤 昌著 SD選書 鹿島出版研究所 昭和41年2月28日刊より))、この規定は『青標紙』に受け継がれた。2014年4月


青標紙の文章によれば、藩の家紋を付けることが出来たのは国持大名、帝鑑の間の大名、柳間の大名、及び交代寄合に限ると規定されていた。
(参照)『江戸叢書書』12巻、巻の2 江戸叢書刊行会 大正5年(1916)から大正6年(1917)刊、 この本に『青標紙』(天保11年)の原文が掲載されている。
 
国立国会図書館デジタル化資料所蔵


青標紙より他の大名屋敷イラストを見る

刊行者・大野広城(幕臣小十人組・国学者 1797〜1841没) 通称・忍軒、忍之屋。 彼は『青標紙』を出したため、幕府に睨まれ天保11年(1840)に九鬼式部少輔の丹波国綾部藩にお預けとなり、同年9月に死亡した、一説には憤死と言われる。
この本の内容は、大正時代に刊行された『江戸双書』によって全容を知ることが出来る。(上の写真は表紙複写)

原著の正確なタイトルは 次のとおりである。

写真の大名屋敷門は、外様大名の1万から2万石の藩であることが判る。

《考察の方向 目次》2015年 制作・修正 
伝承(本)から大名家屋敷門の場所(江戸時代)を探る。 詳細を見る
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参考資料 
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