《蓮光院にある大名屋敷門の藩名と場所の謎を探る》下に目次

大田区下丸子の「蓮光院」に大名屋敷門がある、もと西馬込中丸にあったのだが、昭和14年頃、下丸子の蓮光院に移築された。残念なことに元持ち主の藩名が判らない。格式から1万から5万石の大名屋敷門であることは疑いがなく、昭和39年(1964)4月に東京都指定文化財に選ばれた。

2010.1.27
2011.2.10更新
6.03更新
12.31
更新
2012.02.08更新


裏側から見た門
裏側から見た大名屋敷門 拡大表示
蓮光院の大名家屋敷門  大田区下丸子3ー19ー7
番所
門番のいた片番所(左側)

櫻の一枚板・扉
梁部分
門の梁部分
門上部構造
門上部の不思議な開口部

寿福院 蓮光院について
  寿福院 蓮光院の開基年代はハッキリしない、享保元年(1716)に火災により焼失、翌年堂宇は再建された。昭和14年(1939)に本堂、庫裡、山門を整備とある。この時に河原家より移築されたらしい。このあたりの詳細は不明である。昭和20年の戦災で山門以外は焼失した、昭和31年(1956)に本堂、庫裡、書院を整備して現在に至る。
寿福院 蓮光院 真言宗智山派の寺、昭和元年(1926)玉川八十八ヵ所の霊場、第五十九番札所となる。
(住所下丸子3ー19ー7)

右側から見た武家屋敷門→ 


大田区の調査から「蓮光院大名屋敷門」の 建築データー
   『大田区の歴史的建造物』(大田区の文化財 第34集 大田区教委委員会)

 
  ■
構造 一重、入母屋、浅瓦葺き、中央部に両開き扉、出格子付片番所、片潜門
  規模 桁行八間柱真々 48尺6寸2分(14,730ミリ)
      梁間三間柱真々 17尺2寸4分(5,220ミリ)
      建築年代 江戸時代末期(19世紀中頃)
 
  文化財の特色
  小大名格の武家屋敷門として格調正しい様式を備えており、その構造、形式共によく保存されている。家格に応ずる江戸期の武家屋敷門のうちでも、特に保存例の少ない1〜5万石の小大名格の形式を良く伝えるもので、希少な東京都指定文化財である。

  解説 昭和14年頃、馬込中丸の河原氏から寄進移築された。河原氏が池田山の備前岡山藩池田家、または芝区毛利家(長州府中藩毛利家5万石)、豊後佐伯家2万石(萩毛利家とは血園関係にない)など諸説があるが不明である。


  住所・東京都大田区下丸子3ー19ー7



大名屋敷門の前持ち主、河原久輝氏子孫の方から
 
 私も河原久輝氏の子孫の方に確かめたところ『子供の頃(大正時代)、家の入り口に大きな門があったことは覚えている』『戦前に、門は大田区に譲られたと聞いている』との返事である。しかし、明治31年(1898)以前に門が何処から移築されたかは分からないという。


江戸時代の『青標紙』で石高を調べる……
 
 江戸時代の後期、大名家屋敷門は幕府より大名の格式(石高)による門扉、くぐり戸、門番所の形式が厳格に決められていた。

 江戸時代に武家故実を解説した小型本(折り本)『青標紙』は天保10年と11年の2回発刊された、その中に大名屋敷の門と門番所についての絵が載っている、これは文化6年(1809)に定められていた大名屋敷門の格式を記載したと考えられている。

『青標紙』から大名家石高を推理する
 右の イラストを見てほしい、「入母屋桟瓦葺、両側に番所、両側の潜り戸は片開き」の大名屋敷門である。写真と比べると蓮光院の門は、5万石以下の大名家屋敷門であると確認できる。また、片番所なので石高も1〜2万石の小大名である事が推定される。

 また『青標紙』には、『右国(持)家の長屋三間梁、万石以上長屋二間半梁、万石以下長屋二間梁の事。但し、表門に家々之紋附る事。国家併に定鑑間・柳間・交代寄合抔に限る。』の記述もある。発行部数は300部ぐらいの少部数。
  小大名家屋敷門に定紋を附けることもあったようだが、現存する大名屋敷門とその資料が少ないため「紋」の詳細は分からない。専門家によれば「大名屋敷に紋は付けない事が一般的である」と言う。

上記「紋を付けた」の文章は『青標紙』天保10年(1839)刊の記述であろう、天保11年版には「紋を付けた」の記述がない。(2011年10月追記)常識では間違いを訂正したように思える。大名屋敷門に紋は付いていなかった。
(参照)『江戸双書』刊之2 名著刊行会刊 昭和39年9月15日発売 この本に『青標紙』(天保11年)の原文が掲載されている。

刊行者・大野広城(幕臣小十人組・国学者)1797〜1841没 通称・忍軒、忍之屋。 彼は『青標紙』を出したため幕府に睨まれ、天保11年(1840)に綾部藩にお預けとなり同年9月に死亡した、一説には憤死と言われる。この本の内容は、大正時代に刊行された『江戸双書』によって全容を知ることが出来る。(右の写真は表紙複写)


 
青標紙より他の大名屋敷を見る
《考察の方向》2012年制作
 ●伝承から大名家屋敷門の場所(江戸時代)を探る。 詳細を見る
 ●明治初期の武家地処理問題について 詳細を見る 地租改正の詳細を見る
 ●下屋敷の大名屋敷門では立派すぎる、上屋敷門ではないか。 詳細を見る
 ●大名屋敷門の家紋は正しいか。 詳細をみる
 ●芝区今里村あたりに別の毛利家大名家屋敷門を探す、 詳細をみる
 ●馬込村は二代将軍秀忠(台徳院)の御霊料を納め、増上寺の寺領であった。詳細を見る
 ●難工事だった第二京浜国道は大名屋敷門移築に影響を与えたか。詳細を見る
 ●九州豊後佐伯藩(さいきはん)の上屋敷門か、現・西新橋2丁目あたり。 詳細をみる
 ●2012年1月 現在の推論、九州豊後佐伯藩の上屋敷門か 詳細をみる
 
大田区の謎目次 扉目次に戻る 次のページに(伝承)