ー日光東照宮との繋がりを感じる不思議な霊獣「久が原東部八幡」ー

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拝殿正面・向拝柱木鼻の不思議な霊獣
 拝殿は文久2年(1862)に立て替えられたと伝わる。大田区でも数少ない装飾の多い江戸末期神社建築の特色を持つ。中に素人推理では分からない霊獣がいる、向拝柱木鼻(ごはいはしらきばな)の籠彫彫刻は、見たとき不思議な霊獣がいると思ったが種類は不明だった。日光東照宮の霊獣を研究している高藤晴俊氏の著書によれば、この霊獣は「犀(サイ)」であると教えられた。役割は、火を防ぐ水の霊獣らしい。また、神聖な空間への案内をする役割とも言われている。

↑●霊獣・犀(サイ)、向拝柱木鼻(ごはいはしらきばな)籠彫(かごぼり)の右側、下の写真は左側の犀。

 


霊獣・
犀(サイ)の特長
 宝暦三年(1753)にまとめられた『御宮並脇堂社結構書』(宝暦結構書)は、東照宮建物の部位ごとに漆・彩色・金具の仕様を詳細に記載したものである。一部を除き彫刻の主題も明記されている。(『図説 社寺建設の彫刻―東照宮に彫られた動植物』高藤晴俊著 平成11年 東京美術刊 1999年)
 
  上記の本によれば、昔より水犀や通天犀と呼ばれ、建築や絵画・工芸品などに使われていた。この犀がいつの間にか変形して体形は鹿に、背中には亀の甲羅を背負い、一角を持つ、体には風車紋、脚は細く偶諦である姿に変わった。犀は我が国で生まれた霊獣である。腹には蛇腹があるというが、久が原東部八幡の犀では省略されている。

上野公園にある「両大師 鐘楼」は17世紀中頃か後期の三代将軍御霊屋の手水舎が前身と言われ、蟇股に霊獣・犀がいる。時代から日光東照宮をモデルとして彫られたものと考える。綺麗な横向きの犀である。

上の本は昭和6年(1931)に出版された日光東照宮の姿を写したモノクロ写真集である。写真は日光東照宮が修繕のため必要に応じて撮影した修理等確認写真である。その中から選別したのだとある。普段は見ることの出来ないアングルや場所が見ることが出来る貴重なものである。
『日光東照宮建築装飾図集』角南 隆編 昭和6年(1931)刊 大塚巧藝社 非売品

モノクロ写真は、拝殿東面、妻虹梁下にある犀。『日光東照宮建築装飾図集』角南 隆編 
昭和6年(1931)刊 大塚巧藝社 非売品
←●霊獣・龍馬(りゅうば (写真は東照宮)
  天馬とも言われる珍しい霊獣である。東照宮においても、陽明門上層の飛貫鼻(ひぬきばな)にだけ見られる。左写真のように半身像の丸彫りであり、二角の奇蹄が特長で14体ある。飛貫彫刻は波の地紋に全身像が浮き彫りにされている、陽明門には8体ある。葛飾北斎の波で有名な「波の伊八」も龍馬を彫っている。
久が原東部八幡社の霊獣は龍馬でなく麒麟(きりん)であった。
 鱗(うろこ)を持つ生き物の獣類では、麒麟が最高の存在であると言われる。一般に『体形は鹿に似て、頭部に一角、足は二つにわれた偶蹄、体に風車紋、顔は龍に似るが二本の牙があり、上唇の先端に鼻孔が付く、鯰のようなヒゲは見られない。衿にはカールした体毛がある』(『東照宮に彫られた動植物 図説社寺建設の彫刻』高藤晴俊著 東京美術 1999年)、下の麒麟は雲の中を飛んでいる。


霊獣・獏(ばく悪夢を良夢に替えてくれたり、悪夢を食べてくれる。社寺の向拝柱虹梁鼻に彫られることが多い、像や唐獅子と同じようにポピュラーである。→
 
獏の特長
  象(ぞう)に似て長い鼻がある、しかし目が違う。獏(ばく)の目はソラ豆のような形である。また、カールした体毛と二本の長い牙を持つ。

  木鼻は古くは簡単な彫りであったが、室町時あたりより
徐々に複雑な彫物になり、江戸時代中頃より立体的な丸彫りとなった、これより「籠彫」と言われて透かし彫りなど複雑な彫物となった。


霊獣について、
日光東照宮の宮司 高藤晴俊氏に御教示を頂いた(霊獣の研究家
 
  高藤氏に久が原東部八幡社霊獣の写真を見て頂いた。その結果、霊獣は犀・麒麟・獏に違いないという。久が原特有の珍しいものと思ったが、犀も麒麟も関東地方の多くの神社に見られ、特殊なものでないと言われる。大田区の神社をほとんど見たが犀はなかったと記憶する、そこで珍しい霊獣と思ったが残念である。
  また江戸期の彫物大工ならば『このぐらいの彫り物は、下絵もなく彫ることが出来たのでないか』と聞くと、江戸期職人の腕の高さに脱帽である。また特別に日光東照宮を参考にしたとは考えられないという。彫物大工徒弟制度の中で伝承されていった独自の手本が伝承されており、下絵なしに彫ることが出来たという。私が考える以上に江戸時代の彫物大工職人の腕は高かったようだ。
 
  分かったところで次の問題が浮上する、江戸近郊の馬込村で誰が彫物大工に作らせたかと言うことである。村内に彫物大工はいたのか、いなかったならば誰が、どのように頼むことが出来たかという問題である。その後、江戸期の馬込村に彫物大工はいなかったと判明した。(『江戸時代の村の職人と商人』博物館ノートNO.25 大田区郷土博物館)


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