ー「毎年八月六日になると」―私の初舞台は『富島松五郎伝』でしたー 
丹阿弥谷津子(俳優)


丹阿弥 私の父は江戸っ子で、漆商人として両国に大きな家・蔵を持っていたのが震災で無くなった、そんな家の末息子で、絵描きになりたくて(横山)大観先生の門に入り、同じ道を目指していた母と出会って…二人の若い…貧乏絵描きの生活が始まったわけでございましょう。そこに生まれたのが私と妹で、妹(丹阿弥丹波子氏)は銅版画の仕事をやっております。母は時々築地のお芝居を観ていたようで「谷津子には新劇という世界がどうか」と言いましてね。父が久保田万太郎先生とご縁があったのでご相談したら「お嬢さんを預けるなら文学座がいいでしょう」と、文学座の研究生に私は入れていただいた。そして里見先生が演出をなさっている「富島松五郎伝」の稽古に一緒に研究生になったお葉さんと通って見学していたんです。そしたらお祭りの太鼓の場面で人が少ないって里見先生がおっしゃる。「おい、この子達は使えないのかい!」って、突如として私たちが合わせてもいないカツラを被らされ、浴衣を着付けられて舞台へ追い出されました。で、やくざがワーッと喧嘩に来る…すると女の子たちがキャーってこう散り々にならなきゃいけないの。それが言ってみれば初舞台。森雅之さんがやくざと、杉村さんの夫の軍人さん役と二役演っていらした。やくざを演るのがとっても楽しそうでしたよ、森雅之さん。…初めて出た舞台で丸山さんのお芝居を見たものですから、自分が出てない幕は花道とか舞台の袖からそーっと見ていたんです。やっぱり最後の幕での、奥様とも別れてなんともいえない顔してじーっとお座りになっている丸山さんのお姿が今でも胸に浮かぶくらい心を打たれました。そんなことをちょっと新劇関係に書いたの…それで今日こういう破目になったの(笑)。

菅井 丸山さんのお芝居は「富島松五郎伝」の他にもご覧になっていますか。
丹阿弥 なんにも…。丸山さんは「富島松五郎伝」がとても気に入られて、ご自分たちの劇団で旅公演していらしたようです。そのうちに広島でああいうことになって…。文学座も幾つかの芝居を移動演劇向きにつくって旅をいたしました。


菅井 旅をされたのはどの辺り?

丹阿弥 いたるところ。その度に移動演劇連盟でコースをつくってくれました。私が「クワ、クワ…」って呼んでいた友人の桑原さんのお家が広島にございましてね、原爆が落ちる前の年に広島へ行きました。皆を呼んでご馳走してくださったんです。翌年そこのお宅も無くなって、クワと、美術学校に行っていた一番下のお妹さんだけが東京にいたので生き残ったけど、ご家族はみんな亡くなってしまった。そんな事でひどく広島という所が胸にあるわけです。

菅井 移動演劇で、一カ月の内どの位お芝居は打たれたのでしょう?

丹阿弥 一箇所で昼夜やる時と二日間やる時とあって、終わるとすぐ汽車やトラックで次へ運ばれて、その翌々日位にまたお芝居して、また次へ運ばれて…という感じで…あの時代は工場で働く人達をおだてあげるようにして働いていただく、慰安のため…そういう所でならお芝居が出来たわけです。私は5万分の1の地図を持って次に行く所に印つけたり、スケッチブックも持ったりして旅が楽しかった…。若かったせいもあるでしょう。

菅 井 その時、お幾つでしたか?
丹阿弥 …あら、幾つでしょう?
中村美代子(客席から) 私より下なの…昭和15年に女学校卒業したでしょう?
丹阿弥 昭和16年に文学座に入ったんだわ。
中村 私も富島松五郎伝を2〜3回観てるのよ。その後丸山定夫さんはね、真船豊の「見知らぬ人」やってるの。
丹阿弥 そう…とっても凄いのね。
菅井 丸山さんの芝居はそうすると「見知らぬ人」もご覧になっているわけ?
丹阿弥 そういうわけです。私は松五郎が文学座のお芝居だったものですからね、…最後の幕のなんともいえないお姿が…

中村 焼酎飲んでコロッと死ぬでしょう。(舞台に登壇、対談に加わる)
丹阿弥 …しみじみしちゃうのね…。
中村 貴方出てたのね〜。羨ましい…
菅井 丸山さんは、若い丹阿弥さんたちに、稽古の時にお話されたりしましたか?
丹阿弥 相対でというのはございません。

中村 貴方がさっき「クワ」って言ったでしょう。あの人あとで俳優座に入ったのよ…。私と仲が良くてね、御殿場に疎開していた時に「(広島に)変な爆弾が落ちたらしいから行ってごらんなさい」って私が言ったの。それでクワさんが広島に3日間行って…、帰ってきた時に紫色の斑点があったの。桑原さんの最期、可哀相で…私、「クワ」って聞いた途端に涙が出そうだったのよ。桑原さんは自分の家がどうなったかが一番心配で、実家は蝙蝠傘屋の問屋よね。だから蝙蝠傘の骨だけが一杯地下室に残っていたって…。
 それから昔、原爆資料館に丸山さんの手拭いがひろげてあったの。どうして今は飾らないのかと思って、私。…あれがもう一度見たい。


菅井 丸山定夫の手拭いは、私も学生時代、広島に行った時に見てますね。
中村 どこかにしまっちゃったのかしら…捨てちゃったのかしら…。
黒川万千代(平和運動家・客席から発言) イタリアの反戦画家が描いた「平和の木」というのもしまったきりでしたけど、たくさんの人が署名を集めて要求した時に出してくれました。…ここにいる人みんなで署名でもして出したら、見せてくれるチャンスがあると思います。捨てることは絶対ないです。今、世界中の平和博物館がレプリカだけになっているのが大変残念ですが、劣化してしまうので仕方がございません。


山口みる(事務局) 戦後すぐの「桜の薗」のお話を…

丹阿弥 新劇合同公演のお話?私は両親と一緒に信州の飯田に家族疎開をしてしまったの。…で、文学座も石川県の小松に劇団疎開していて、宮口精二さんたちと手紙のやり取り等はあったのですが…当時の文学座のことはあまり知らなかった。隣村に岸田國士先生も疎開してらしたので伺ったら「ほーっ、貴方は文学座の研究生なのか」と嬉しそうにしてくだすって。時々は先生の書棚からご本を拝借して勉強をした思い出があるんです…。そして戦争が終わって、みんながワァーッと東京へ帰ったわけですね。でも私には東京に家がないんです。ところが合同公演「桜の薗」でアーニャという娘役が貴方についたから帰っておいでということなったのです。…(東京に家がないので)父の友人の家に泊めてもらったり、狭い伯父の家に泊めてだけもらって…、持っていったお米がこれっぽっちしかないのにお弁当を作ってくださいとも言えないでね、スカスカなお弁当箱を持ってお稽古に通いました。戦争の終わった年の12月に有楽座で合同公演、チェーホフの桜の薗を上演しました。…あの時の滝沢さんだの、皆さんの喜びようったらなかった。あれは毎日新聞社が後援してくれたんですか?

中村 そうですね。…貴方、恋人役が千田さんだったから大変だったでしょう!
丹阿弥 そうね、千田先生ね…「僕はね、相手の目が見られないからゴメンね」っておっしゃってね…「アーニャ!」って、こんな上の方お向きになるの(笑)
中村 滝沢さんがエピホードフって、ちょっとおかしな役、私、上手かったと思う。それから、森雅之さんのヤーシャ、これがよかった!!
丹阿弥 杉村さんがドゥニャーシャでしょ。文学座は皆、使用人の役なんだからね、あんたはしっかりしてもらわなくちゃ困る…なんて、怖かった…(笑)。お嬢さんの役でしょ、私は。
中村 それで中村伸郎さんが最後に死ぬ…
丹阿弥 フィルスって役だったの。ストーブの処で…こう死んでいるの、あれがよかったわ〜。
中村 みんな、素晴らしかったわよ。
丹阿弥 押さえに押さえられて来たでしょ。勝たなきゃいけないって!シュプレヒコール…。
中村 私たちもそうだったわ。…男がどんどん出征しちゃって、私が将校やったことあるのよ…。
菅井 (笑)ありがとうございました。続きを是非また…。

1、文学座「冨島松五郎伝」拡大表示

2、文学座「怒濤」拡大表示

4、「サド公爵夫人」拡大表示

3、文学座「鹿鳴館」拡大表示


閉会挨拶…児玉謙次(世話人 青年座)
 
  現在の中村会長になってからは、我々世話人会や事務局の雰囲気が変わったような気がいたします。…会長は男ではダメだ、女性がよいという丸山定夫の遺志でないかと確信しております。いろいろな企画がここで生まれましたが、来る2011年は土曜日なので、また大きな企画をと考えております。また私事ですが「日本の青空」に私と鹿島君とで出演しております。私は光栄に思っております。一人残らずの日本人にこの映画を見てもらいたいと願っております。

2008年追悼会報告扉 ページ1ぺージ2ページ3ページ4、ページ5、ページ6