山口 関さんが芝居の世界に入られた経緯をも含めてお話しいただけますか。

関 私は1926年生まれなので、美代子さんの二つ下ですが、この世代というのは2〜3歳年が違うと経験したことがガラッと違うんですね。私は赤坂の連隊に入隊したのですが「既往症のある者出ろ」って言うから出ていったら医務室に行って、その後「即日帰還を命ず」と。命令するんですよ。昭和20年6月頃でした。私は戦争の後ろ姿をずーっと追いかけてきたような世代です。同じ年齢で戦死した人もいますけれど。話が戻りますが、築地小劇場へ行ったことがあるんですよ。その頃は国民新劇場という名前になっていましたが。

中村 昭和15年に改称させられたのよ。

関 文化座さんが旗揚げ公演をやって、満州へ行く前まで確かやっていた。【文化座は1942年7月第一回「武蔵野」から1944年12月第7回「牛飼いの歌」まで国民新劇場で公演。劇場焼失により拠点を失い1945年6月に渡満】
 桜隊では「獅子」という芝居をやったが、文化座さんのやった「獅子」も見ました。それから「俺は愛する」だとかね。私は学校が近かったので築地小劇場へ何回か行っています。それから「東童」という子ども向けの芝居も、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」なんかやりましてちょっと面白かったし、高山象三のお姉さんの、薄田つま子がやった、あの若いお母さん役とってもお洒落でした。戦後、私は早稲田大学に入って、授業がないものだから早稲田の演劇博物館という処に入り込んで暇つぶししてたというか…。当時はエノケン、ロッパ、新派、歌舞伎の時代で…それがマッカーサー司令部は歌舞伎を禁じたんです。忠臣蔵やっちゃいけないよっていう。さあ何やるかっていうと、やっぱり築地のちょっと匂いをかいだということもあり、これからは新劇の時代だっていうことだったものですからね。村山知義が朝鮮から帰ってきて新協劇団【第2次】作って、昭和21年3月にもう旗揚げした。そういう慌ただしい時代に、私はその新協劇団の研究生になりました。研究生の授業は薄田研二さんのお家でやっていたことがあります。研究生10人くらい、薄田のママさんに雑炊を作ってもらって食べるのが楽しみでした。
 ところでね、資料を持ってきたんですが、演劇博物館の資料です。『早稲田大学坪内博士記念・演劇博物館編、演劇二千六百年図表』。二千六百年ってわかります?天皇紀元ですよ。おかしいでしょ。天皇紀元で二千六百年っていうのは昭和15年です。(注=紀元二千六百年奉祝行事は各地で行われ、演劇博物館でも多少の動きは見られたが、顕著なものはなかった。ただ、一階展示室の壁面に「演劇二千六百年図表」として大パネルを掲げ、それを昭和18年に演劇博物館がパンフレットとして縮刷刊行した) それの最後に『大東亜共栄圏建設のため、芸能振興の機運高まる、昭和十七年』と書いてある。この記録が最後でしょうか、演劇博物館としてはほとんど戦争中最後のものだと思います。そういう時代になっていました。昭和15年、1940年に、新協劇団、新築地劇団と、テアトロという演劇雑誌の編集が…

中村 やめさせられる。
中村 牛車。
関 人力車とかね。
中村 宝塚は軍隊の慰問には行かされたって。文化座は満州に行った。日本の軍隊の慰問に外地に行った人たちもいましたね。
山口 移動演劇隊の編成についてというのが残っています。プログラムの準備を整えた演劇隊は、連盟を通じての申込みによって出動するわけですが、ここで連盟所定の申し込み用紙を参照してみます。そこにはまず移動演劇・演芸隊の派遣公演地域には、内地、北海道、樺太、朝鮮、台湾、琉球、および満州、支那各地、南洋に及ぶ、とあります。
中村 外地のホテルで、若い女優さんたちが、兵隊にからかわれた時に、仲みどりさんが階段の一番上から真っ裸で、バカヤローってすごい声で怒鳴ったので兵隊がびっくりして逃げちゃったという話を聞きました。仲みどりさんは肝っ玉のすわった女傑だと思ったわ。
山口 戌井市郎さんが、文学座も戦争協力をしなきゃいけないのではないかと書いている。
中村 文学座の久保田万太郎、岩田豊雄、岸田國士さんは大政翼賛会に入っていたからね。
山口 情報局から文学座に、新劇団を統合して、情報局劇団というものを創立するからそれに参加しないかという打診があった。その時に岩田豊雄さんは「参加すべきではない」とおっしゃったけれども、俳優たちが、やらざるを得ないんじゃないかと結論した。座がなくなっても先生方や森本薫さんは書斎に帰ればいい、だが役者は舞台が必要だ。この会議の席に久保田万太郎先生は不在だったが、先生の情報局などへの対し方は、岩田先生とは違ってむしろ利用できるものなら利用しようという考えがあったと思う。…と書き遺されている資料があります。これはとてもわかりやすい。俳優たちは舞台がなければ生きていけない。「戦争協力」とはちょっとニュアンスが違うんだというのは、関さんのお話を伺っていても感じたんですけれども「俳優として生きる」という道を戦争中もぎりぎりまで模索していた、ということでしょうか。

関 戦争が終わって新劇復活というときに、すぐに劇団が新しく統一出来たかというと、そうならなかった。あれだけ戦争中に苦労した人たちなんだけれど、やはり「戦争協力」したじゃないか、ということが、統一の大きな妨げになっていたことも確かだと思うんです。文学座は文学座としてずっと温存されたし、他の、投獄されたりした人の中には、やはりお互いへの疑心暗鬼があったり、牽制というか、あれは戦犯だとか、あれは戦争中は何やってたとか。確かに転向という現象もあったし。沈黙していたのはいい方だけれども、やはり食べるためには何かやる、そういうことが非常な歪を作った。
中村 私達は俳優の仕事をするのに警視庁の特高二課に行って十本の指、押捺させられて鑑札もらったんです。宝塚の人はしなくてもよかったらしいの。おそらく文学座もやらなかったんじゃないかしら。とにかく俳優座は睨まれていましたから、押捺。でもそこで小学校の友だちに会ったの。文化座の河村久子さん。【故・河村久子は文化座女優、桜隊世話人】
山口 移動演劇に出発する時には軍服を着て、整列をして、芝居を始める時には必ず誓いの言葉を言わされたとありますが―
中村 私たちはやらなかった、千田先生がやるなって。
山口 美代子さんたちはやらなかったそうですが、資料をもとに再現しようと思います。俳優座の志村史人さん、お願いします。
志村(朗読) これより勤労芸能会を開催いたします。開会に先立ち、国民儀礼を行います。一同、ご起立を願います。敬礼、宮城遥拝。宮城のご方向にお向きください。宮城に対し奉り最敬礼。直れ。国歌斉唱。……。五国の英霊に感謝を捧げ、皇軍、将兵の武運長久を祈り、併せて大東亜戦争の必勝祈願をいたします。敬礼。
山口 もう一つ、勤労芸能訓五条を必ず全員に朗読させる事とあります。
志村(朗読) 一つ、戦う国民の勝ち抜く力を生みだそう。一つ、自分たちの郷土や職場を強く育てよう。一つ、互いに力を合わせ、みんな仲よく働こう。一つ、工夫を重ね、勤労を美しく楽しくしよう。一つ、よい躾とたしなみのある日本人になろう。以上。
中村 大笑いね。
山口 こういうものを真面目にやらなきゃいけなかった。それでも、どこに自分の良心を守っていこうかという処で芝居を続けてらしたのだ、ということを強く感じました。

関 戦後すぐに新協劇団へ入って薄田研二さんのレッスンを受けた、と言いましたけど、私は当時亡くなった高山象三さんの二歳下なんです。新築地劇団を支えていたのが薄田研二と丸山定夫、山本安英、その三人だった。その薄田さんが山本さんとは離れ、丸山さんが亡くなって、息子まで失った。そういう無念の「薄田研二」というふうに六十年経って感じました。死んだ息子とほとんど同い歳の私たちをどう見ていたのかなと、今になって特に非常に親切に育ててくれた薄田夫妻を思い出します。
山口 苦楽蓙が作られたいきさつを薄田さんが書き残しています。

青田(朗読) 「苦楽座のこと」 薄田研二
ある日、シナリオライターの八田尚之君がひょっこり私の家へみえました。八田尚之君は以前南旺映画の重役をしていて、その関係や、尾崎士郎さんの『空想部落』という小説の映画化したとき、私も千田(是也)君とともに出演しましたが、その時の脚色者だったりした関係もあって知っておりました。何の用事で来たのかと思っていると、

『とうさん、芝居をやりたくないか』
と藪から棒です。
『そりゃやりたいさ、しかし芝居は一人じゃ出来ないからね』
『もし芝居をやりたいとすればどんなものがやりたいと思う?』
『そうだね。こんなご時世だから喜劇だな、風刺的な』
『いやとうさん、俺も喜劇しかないと思ってたんだ』
と、八田君と意見が合って、なお、どんな俳優がいいか、どんな演目がいいか、など夜のふけるのも忘れて話しあいました。私はそのときは到底実現できそうにない夢物語だと思いながら、それでもなおかつ、何か楽しく、ただ話だけでも心の弾むのを押えようがありませんでした。
 それから私は大映の映画のロケに行き、帰って来てみると、八田尚之君からのお使いがみえ、新宿の武蔵野館の裏の、何とかいう家へ来てくれ、という伝言です。行ってみますと、そこには、徳川夢声さん、丸山定夫、八田尚之君の3人が談笑しています。先日八田くんと話し合った劇団のことが、私の留守中すっかりお膳立てができて、その日は何かの都合で見えておりませんでしたが、藤原鎌足さんと私を加えた以上5人の同人制の劇団があとは劇団名と旗揚げの演目が決まればいいだけで、まさに生まれかかっているところでした。私はすっかり嬉しくなりました。結局、劇団名は『苦楽座』ときまりましたが、勿論この人達は演劇についてそれぞれ異なった考え方を持った人達の集まりですが、ただ芝居が好きで好きで、国策一色で塗りつぶされてしまった現在、何とかそれとは全く無縁な、それ故苦楽座の楽などある筈もないのに、あえてそういうことをやろうというのですから、細かい心遣いや心配は無用なわけでした。(略)
 一九四三年に入ると、戦況は苛烈になって参り、幕を開けてすぐ警報が出て、芝居ができなかった、ということがちょいちょいあるようになり、丸山は四谷本塩町に家を持っておりましたが、それを引き払い、殆んどリュック一つで全くの身軽になってしまい、私は息子の象三を裏の見習いのようにして連れて歩いたせいもあって、それほど旅興行も苦になりませんでした。が、夢声さんは東京に家族を残しており、空襲警報が出ると、ひどく東京の空が案じられるという風だったのは無理からぬことでした。しかし「富島松五郎伝」を持って、殆んど全国を興行しましたが、最後まで抜けませんでした。
 旅興行の会計は私がやりましたが、明け暮れ、うるおいのない生活だっただけに何処でも大入りで、私は興行元から渡されるお札を腹巻きに入れて歩きましたが、忽ち身体がぐるぐる巻きになるほどで、何十カ月かの旅から家へ帰って腹巻きから札を取り出すと、札と一緒に肥えた虱がぞろぞろ這い出す始末でした。
 しかし何かというと警視庁に呼び出されました。同人中呼ばれるのは私だけでした。三好十郎君の「夢の巣」という芝居をやったことがありますが、このときも警視庁に呼び出されて、聖戦に協力的じゃない、もっと軍国調のものが出来ないか、と散々油をしぼられました。この芝居は木賃宿の生活を描いたもので、それぞれに夢をもった人物が出て来るのですが、これが聖戦協力的じゃないというのです。またこんなことがありました。愛知県の安城というところに「トヨタ」自動車の工場があります、いまトヨペットを作っているところですが、その工場から同人の名前にひかれて「無法松の一生」を買いにきました。ちょうど人手が足りなかったものですから演出の村山にも一緒について来てもらったのですが、その工場へ行ってみると、大道具が未着なのです。空襲は頻繁にあり、汽車など混乱し始めた頃ではあり、遅れたものと見えますが、まさか装置なしでは芝居はできません。村山も私も困り切ってしまいましたが、ふと工場へ来る途中、町の小屋に「金井修剣劇一座」の幟が立っていたのを思い出しました。私は村山の手をつかんで、町の方へ駈け出しました。その楽屋へ行き、「金井さんにお目にかかりたい」というと通してくれましたが、私はざっくばらんに、これこれこうで大道具が未着で困っている、あなたのを貸していただけないか、と申し込んだところ、金井さんも面白い人で、すぐ承知してくれました。ただ自分のところもやっているのだから、一幕ずつ済んだところから持っていってくれ、というのです。私も村山もガチ(トンカチ)を持って一生懸命装置しましたが、なんとも珍妙なものでした。それでも大変喜ばれて帰京すると、また警視庁から呼び出しです。
「村山と二人でどこへ行ってたんだ」
「どこって、愛知の工場へ慰問にですよ」
「いかん、村山と二人で行くことは絶対に禁ずる、今度そういうことがあったら、入ってもらう」
 私は他の同人には黙っておりましたが、私が同人であるのが面白くないらしく、事々に難癖をつけ、だんだんやりずらくなってまいりました。
 それと一九四五年三月の東京大空襲で事実上芝居どころではなくなり、遂に解散いたしました。

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