| ■■■■2012年 桜隊原爆殉難者追悼会・報告■■■■ |
8月6日(月)五百羅漢寺。8時から五百羅漢寺主催の平和祈念桜隊殉難者追悼法要。10時30分より桜隊原爆殉難者追悼・碑前祭。記念写真撮影の後、昼食、歓談。12時より法堂にて2012年桜隊原爆殉難者追悼会を開会。
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■追悼 中村美代子会長を偲んでDVD上映 |
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司会 浦吉ゆか
(青年劇場俳優・世話人) |
■開会挨拶 近野十志夫(事務局長)
今年の3月4日に世話人会を開きました。議題は今後の運営について。中村会長も出席の予定だったので2月27日に電話で話したのですが、翌々日に亡くなったという電話が息子さんから入りました。そしてその日に美代子さんからハガキが届きました。僕と話した後に、追加事項をハガキに書き夕方に投函して、その日の夜に亡くなられたのです。本当に残念で、美代子さんはきっと我々に話しておきたいこともたくさんあっただろうにと思っています。
そこで、今年は1981年から残っているこの会の資料を検証する作業も事務局長らしい仕事かなと思いまして、池田生二さんの遺品資料のコピーをあたり直したところ、1945年の9月17日に桜隊合同慰霊祭が開かれたことがわかりました。当時移動演劇連盟のトップである情報局長へ弔辞依頼をした際の弔辞案というのが出てきたので、後ほどそれをご紹介します。また1975年8月、鎌倉の丸山定夫碑前での集まりがあって桜隊原爆忌を提唱されたのですが、この年の10月19日に開かれた会が、第1回桜隊原爆忌と記録されていました。そこから計算すると、今年は第38回目にあたります。また歴代の会長を確認しますと、記録にある1981年からは佐々木孝丸さんと藤原釜足さんのお二人で85年まで。86年に佐々木孝丸さんと小沢榮太郎さん、87年が小沢榮太郎さんお一人、88年から滝沢修さん、91年から浜村純さん、そして中村美代子さんには95年から18年間会長を務めていただきました。
今年は新藤兼人監督も5月29日に亡くなられました。新藤監督は江津萩枝著『櫻隊全滅』を基に、羅漢寺さんの協力を得て映画『さくら隊散る』の製作を決意し、1987年8月6日ここ羅漢寺でクランクインをしました。翌年3月に完成します。1988年8月6日の原爆忌には新藤監督と乙羽信子さんが参加。実はその年、僕もここに初めて参加して新藤さんと乙羽さんのすぐ近くに小さくなっていた思い出があります。その年は僕の詩集『人物史詩 櫻隊』が出た年でもあり、その中の園井恵子の詩を朝の碑前祭で俳優座の方が朗読してくれました。つながっていたんだなと思います。また被爆61周年の8月6日は日曜日でしたので『新藤兼人原爆を撮る』の中の『ヒロシマ』という未完成映画のシナリオを300人近くの観客を集め、羅漢会館で上演しました。お二人への追悼の意を込めて、桜隊原爆忌の会とのつながりをお話ししました。
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■広島市長・松井一實氏からのメッセージ
朗読と紹介 鹿島信哉(俳優・事務局)
『
メッセージ
本日、ここに「被爆67年 桜隊原爆忌─原爆殉難者追悼会」が執り行われるに当り、メッセージをお送りいたします。
1945年8月6日、一発の原子爆弾により広島の街は廃きょと化し、その年の暮れまでに約14万人もの尊い命が奪われました。住み慣れた街を破壊され、大切な家族や友人を亡くした被爆者を始め広島市民の心の痛みは、筆舌に尽くせるものではありません。
原爆の犠牲となられた方々の声や思いを胸に、毎日を懸命に生き抜き、この街をよみがえらせ、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求し続けてきた被爆者の平均年齢は78歳を超えました。私は、今こそ、全ての被爆者からその体験や平和への思いをしっかり学び、次世代に、そしてこの世界に生きる一人一人に伝えたいと考えています。
また、人々が集まる世界の都市が2020年までの核兵器廃絶を目指すよう、長崎市と共に、世界の5200を超える都市が加盟する平和市長会議の輪を広げることに力を注ぎます。さらに、NPT再検討会議など各国の為政者たちが広島の地に集い、核兵器廃絶に向けた議論をするための国際会議の開催を訴えており、国内外に働きかけた結果、まずは2014年の軍縮・不拡散イニシアティブ(NPDI)外相会合が広島で開催されることに決定しました。こうした取組を着実に進め、より多くの人に広島に来てもらい平和への思いを世界の人々に広げていきたいと考えています。
さらに、近年、被爆者の高齢化とともに、一人暮らしや寝たきりなど日常生活に介護を必要とする方々が増加しています。本市としましては、今後とも国の内外を問わず被爆者援護施策の充実強化が図られるよう、関係機関と連携し、国に強く働き掛けるとともに、被爆者の方々の生活実態に即したきめ細やかな援護施策の一層の充実に努めてまいります。
世界を動かし、人類の未来を決定していく行動の原点となるのは、私たち一人一人の市民の思いです。そうした意味からも、皆様の、平和への願いを訴えてくださるお気持ちを大変ありがたく受け止めています。皆様には、今後とも核兵器の廃絶を求めるヒロシマの心を伝え続けてくださることを期待しています。
終わりに、原爆犠牲者となられた移動演劇桜隊9名の御霊に心から追悼の意を表しますとともに、御列席の皆様の御健勝と御多幸をお祈りいたします。
平成24年(2012年)8月6日
広島市長 松井一實 』 代読 鹿島信哉氏
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●参加されたご遺族・関係者の紹介(ご紹介順)
岡田美津江様(仲みどりのいとこの子)/佐藤啓江様(仲みどりのいとこの子)/羽原利幸様(羽原京子の甥)/山本智子様(森下彰子の姪)/澤田静江様(丸山定夫の姪)/渋谷眞理子様(澤田静江の子)
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●挨拶 澤田静江(丸山定夫の姪)
長い間この桜隊原爆忌のためにお尽くしくださった中村美代子様に、心から感謝の念と御冥福をお祈りいたします。去年熱く語られたお言葉が、今もここにいらっしゃるように思い出されてまいります。私は関西在住ですが、関西の毎日新聞では今年の1月から5月まで「原爆非命
桜隊は問う」が連載されました。第1回は中村会長、最終の16回目は近野事務局長さんでした。私はとても感動しながら読み、今この時期に桜隊のことを思い出していただくのは本当に意義があり、ありがたいことだと思いました。編集局の広岩近広さんにお礼の手紙を書きましたら、「若い世代に桜隊と原爆のことを知ってほしいと願っております。当時を知る方々が少なくなっていく中で語り継がれていくことの大切さを痛感します。広島へ向かう直前の丸山さんのご様子が(澤田様からの)お手紙から伝わってきて、胸が締めつけられそうになりました」というお返事をいただきました。昨今、原発のことで核の問題が大きく取り上げられて論議されております。桜隊の9名は今を生きている私たちの行動、決断を正しい方向へと、熱い思いで、祈りの中にずっと見守っていてくださると思います。それに対して正しく応える生き方を私たちはしていかなければいけないと、思っております。
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■講演ビデオ上映
被爆医師・肥田舜太郎先生「ピカドンと“内部被曝”」を語る
解説 山崎勢津子(俳優・事務局)
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ビデオ上映風景 |
山崎 これからご覧いただきますのは、昨年の3月27日『発信する子どもたち』という団体が世田谷の砧図書館で主催した講演会の記録DVDです。広島陸軍病院の医師であった肥田舜太郎先生は当時28歳。爆心地から6キロ離れた戸坂村にたまたま往診に来ていて「原爆投下の瞬間」を目撃されました。 |
肥田 私が広島の陸軍病院に赴任したのは28歳の時です。それから66年経ちましたから、今94歳です。広島の体験者ということと、医者ですから被爆した人が亡くなる時、私が手を握ってあげたり、火傷で触るところがなくても火傷してないところを探してそこにちょっと手を当てて、たくさんの人を見送りました。現地にお医者さんはいないし戦後になっても自宅に帰れない。結局、広島近辺で被爆をした人のお世話をずーっとしていました。
8月5日の夜は忙しくて下宿に帰れず病院に泊まったんです。そしたら午前2時頃に病院からおよそ6km離れた戸坂村の農家の6歳の心臓病の子が発作を起こしたというので往診に呼ばれました。応急処置をしたら子どもはスースー寝ちゃったんです。朝7時には起きて病院へ帰ろうと思って隣に布団を敷いてもらって寝たんですが、目が覚めたら8時だった。もうどうやったって間に合いっこない。子どもはまだ寝ていましたが、もし私が帰ってから発作が起きると大変だから、今日一日は目を覚まさないように寝かしておこうと、小さな注射器を出してね、子どもの用量の睡眠薬を入れたんです。あの日は雲ひとつない青空でした。その青空へ向かって小ちゃな注射器の空気を抜こうと上に向けたら、B29が入ってくるのが見えました。
たった一機でしたから気にもとめず、子どもの手を取って注射をしようとしたその瞬間ピカーッときた。広島の人はだれもが「ピカドン」といいます。あのピカーッはね、見た人は一生忘れません。すごい光だった。昔の写真機のフラッシュね、あれを千個くらい並べていきなりパッとやられたような感じ、頭の芯までね、ツーーンと白くなるの。あの時びっくりしておそらく注射器を落としたと思います。すぐに空を見ました。この時私が見たものを、生きていて今しゃべれる人はほとんど一人もいないはずです。街の真上でパッとやられた人はみな死んじゃいましたから。私は遠くから、たまたま東の空を見ていたから知っているんです。
青空にちょうど指輪を横たえたような赤い火の輪がバッとできた。輪のちょうど真ん中の青空に小さな白い雲のかたまりがポッとできて、その雲がブクブクブクブク膨れながら最初にできた火の輪にくっついた。くっついた途端にその雲が太陽のような火の玉になりました。これね、火球っていう。アメリカが核実験やったときの映画などを見てるとよく出てきます。本読むと直径が700メートルと書いてあります。700メートルの火の玉ですから、私から見ると目の前に太陽ができたような感じがするんですよ、すごく明るい光で。だからもう世の中とうとうやられちゃったように思ってね、胡坐かいてジーっと見ていたら、火球の上の方に白い雲になりながら、いわゆるきのこ雲の根元ができてくる。それから火の玉は下が透けていますから、その透けている下に広島の北の山があって、私から見ると街の屋根は見えないで通り越した向こうの広島湾が見えてるんです。その北の山と広島湾との間の隙間のところに、まるでカーテンがおりるように白い雲がおりてきた。…皆あれ下から上まで雲だと思っているけど、あれはね火柱なんだ。こっちから見ると広島市の上は火の柱なの。いろんな色にキラキラ五色に輝いていて、あんな綺麗なもの見たことない。こんな話を原爆が落とされた直後にしたら叱られます。今だから話しますが本当に綺麗でした。
それに見とれていたら、その火柱の一番下のところ、山の向こうに真っ黒な夜の海のような黒雲が現れてこっちの方に崩れ落ちてくる。その雲がダーッと動いて、そのまんま渦巻きのように私の方へ押し寄せてくるんです。田んぼや畑や人家などをみんな巻き込みながら向かってきます。遠くに見えているお寺や神社や林などが、まるで地面から引っこ抜かれて転がるようになって……、その雲の通るところはいたるところでもう大変なんですよ。…来る来ると思ってるうちにもうそこまで来ちゃった。村の向こう側にある小山の背中の上を、まっ黄色な雲がバァーッと越えたと思ったら、二階建て木造の小学校の屋根の瓦がまるで木の葉のように舞い上がって、アッと思ったら私も縁側から、表座敷、裏座敷、ふたつ越えて吹き飛ばされました。目の前の天井が吹きあおられてね、農家の屋根ってのは大きいでしょ、あの藁葺きの屋根がグーッと持ち上げられて青空が見えたんです。そこまではよく覚えているんですけども、その次にはもう記憶がとんでしまっていて、部屋の向こうの大きな仏壇にぶち当たった。それと同時にまくれ上がった屋根が崩れて落ちてきて、僕と子どもとふたり、そこに下敷きになった。農家は丈夫ですからぺしゃんこにならない。私たちの周りには幸いに空間ができた。大きな声でじいさま呼んで、「子どもはここにいるよー、大丈夫だよーっ、私は病院に帰るから自転車借りるよーっ」と怒鳴って、自転車に乗って山を下りて県道まで出ました。
ちょうど広島まであと半分程、3キロぐらい走ったところで変なものがひょっと出た。あれっと思って、何だろうと。大きさからいうと馬でもないし牛でもない、小ちゃい。真っ黒なの。人間ならば8月ですから白いもの着てる。それが上から下まで真っ黒なんです。よく見たら身体のいたるところからボロが下がってる。どうも人間くさい。でもよくわかんない。頭は確かにある。身体の前に両手をぶらさげた格好で歩いてくる。近寄って見ても、顔が有るんだか無いんだか分からない。よく見ると目のところがお饅頭みたいに脹らんでいて、鼻がなくて、鼻のある場所から下は全部口なんだ。怖いですよ、こういう顔っていうのは。唇が両方とも腫れ上がっていてウウウーッて言いながら僕の方へ来るから、怖くなってね。相手は私が見えるから、助けてもらいたくて少し急ぐんだ。傍へ来て「助けて!」なんてやられたら恐ろしいから、悪いけどそこへ自転車止めて、だんだんだんだん後ろへさがっちゃった。その人は自転車へ手をかけてバシャッと倒れた。
ああ生きた人だった、ごめんなさい!!って駆け足でそこへもどってね、医者がいちばん先に何をするかというと脈をとる、心臓が動いてるかどうかそれでまずみる。やろうと思っても触るとこがない!赤むけのずるずるで…。アレッと思って背中見たら素っ裸で何も着てない。私がボロだと思って見ていたのは、生っ皮が剥がれてそれが外套でも着てるように下がっていたんです。こんなの生まれてから見たことない、医者であってもね。それでびっくりしちゃってね、「しっかりしてください、もうちょっと行けば人家があるから何とかなる」とか言いながらその人の周りを回っていました。そしたら私の目の下でね、痙攣起こして動かなくなった。せっかく広島の北の端から僕のいるところまで、あんな身体で必死に逃げてきたのに、私の顔見て死んじゃったのね。この人が、私が広島の被爆者で死んだ初めて見た人。
山崎 この後、先生は広島市内に戻るのですが、市内の惨状に一人ではどうすることもできず、戸坂村に戻り、逃げてきた被爆者の治療にあたります。当時の戸坂村の人口は2500人、そこに6日の晩には6000人、3日目の朝には27000人の罹災者が押し寄せたが、医師も偶然、肥田先生をいれて四人いたのだそうです。これから後のお話は、被爆による火傷やけがではなく、被爆時は比較的軽症だったのにもかかわらず急性の放射能症状で亡くなった方のことになります。一時は助かったと思われた桜隊の丸山定夫、園井恵子、高山象三、仲みどりの四名もこの急性の放射能症で亡くなったのです。
肥田 ……私が見慣れているチフス患者の顔つきとは表情が違う。火傷もしているが顔も血で濡れている。鼻と口から血がだらだらだらだら出る。普通だって鼻血とか口内炎で出血することはありますよ。その時のとは色が違う。アカンベエするところの眼瞼の粘膜から血がだらだらたれてる。こんなのは普通の人の目の病気にはないことなんです。高い熱も出ている。まず口の中を覗いて扁桃腺が腫れてるかどうかを見ようとしました。ところがウォッと臭くて、顔を向けられないんです。普段だって口の臭い人いますよ、だけど診察室であ〜んとやった時に顔そむけるような臭さってのはない。ちょっと我慢すればね。ところが我慢もなにもウワッと来て居られない。このにおいは何かというと、死人のにおいと、生肉が腐った時に出る腐敗臭、すっごく嫌なにおい。なんでだろうと頑張ってよく見ると、口の中が真っ黒けに腐ってます。
後で解ったんですけれども、被爆者の白血球ってのは三分の一とか半分くらいに減ってしまいますから、本人が持ってる雑菌と戦う兵隊がいないんです、雑菌が暴れ放題、勝手放題にやるから腐っちゃう。これが原爆症の一つの特徴なんです。出血のほうも吐血や下血も起きる。その次に紫斑です、紫色の斑点。火傷のないところへ十か二十、ポツッと。これは素人は知らないし、医者でも一生見られない人もいます。血液の病気で、もう臨終になる時に出るんです。ほかの病気じゃ、どんな病気であっても紫斑は出ない。そして最後には頭の毛が抜ける。本人が苦しがって頭を触りますと手の平が触れた所の毛がスーッと取れちゃう。それでも男はびっくりしないんですよ。女の人は大変、この人はもう数時間しか生きていられないだろうと思う人でも、触って毛が取れてしまうとすぐ泣きだします。死にかかってもう声も出ないほど苦しいのに「私の毛がー」ってみんな泣きます。当時28歳の男性であった私には、女性が髪の毛が取れたぐらいであんなに悲しいということが分からなかったです。死ぬことを怖がったほうがいいんじゃないかと思うくらい必死になって泣いている。これが最後になって起こる脱毛。本当は脱毛症状とは違う。毛根細胞が放射線で殺される。毛は毛穴に突っ立っているだけだから触るとスルッと取れる、こういうのはあの時しかないんです。
最初は高い熱が出て、口内壊死、出血、紫斑、毛が取れる、この五つの症状が出そろうと文句なしに死んじゃう。みな決まったように進行していくので、お芝居見てるようなもんです。これがあっちでもこっちでも起こるんです。この人たちの共通項はピカを浴びたっていう事です。また直接ピカを浴びていなくても、肉親や友人を探すためや、救援のために、後から広島市内へ入って残留の放射能を浴びた人たちにも同じような症状が現れだしたんです。ちょうど今東北で起こっている事。放射線が空中へ出て放射性物質として降ってくる、被害者のそばへ落ちて体に入ってくる。テレビを見てると、これぐらいの放射線は何も心配ないって言っていますね、とんでもない。死にゃあしませんよ、だけどみんながびっくりするような症状がこれから出る。
広島でこの急性の放射能症の事に私が気がついたのは、原爆が落ちてから3日目くらいからでした。その前にも出ていたのだろうけど、症状が出る前にみんな死んじゃったから気がつかないんですよ。実際に見た人でなければ、現在の東北のあの状態が、これから後はどうなっていくだろうかってことは想像もできない。今の状況を見て、直ちに健康被害は出ないと言っている人の中に原爆が落ちたときに生きていた人は一人もいない。だからあの人たちの全く知らないことが起こるでしょう。なぜ知らないかというと、放射線でそういうふうに人間が死ぬんだということを占領と同時にアメリカが隠したんです。「広島・長崎の被爆者があらわす症状は、全部アメリカの軍の機密である」原爆も機密なの。「見た人も体験した人も聞いた人も、これをやたらにしゃべったり、書いたり、あるいは写真に撮ったり、後に記録に残しては一切いけない。違反したものは重罰に処す」ということになったのです。あの爆弾がほかの爆弾と全く違うところは、破壊力が強くてどうのこうではなくて、放射線を持っているということが、質的に違うんです。
山崎 健康な人間の白血球の数は6000〜8000だそうです。先生は、被爆により白血球が通常の半分とか三分の一に減って体中が腐ってくるとおっしゃっていますが、東大病院に入院した仲みどりの検査結果には白血球数400とか300という数値が記録されています。
肥田先生は戸坂村で半年間医療活動を行った後、山口県で被爆者の治療にあたります。そして直接ピカを浴びていないのに、身体がだるくてだるくて動けない、ひどいと寝たきりになってしまうという人にたくさん出会います。
肥田 そういう患者の数(身体がだるいという症状)がどんどん増えてきたの。いつの間にかみんなで名前をつけた。「ぶらぶら病」。朝起きてからぶらぶらして、起きて働いていない。これがだいたい共通点。ずいぶん見てきました。
ぶらぶら病というのは特徴です。全部の人に出るかというとそうじゃない。今、東北の人は、早ければ半年ぐらい経つと出ます。遅い人でも一年二年経つうちには「だるい」という症状が出る。その頃には復興してきているので、みんな一所懸命働いているでしょう。広島で内部ヒバクの典型的な症状がたくさん出始めた時期は10〜20年後だった記憶があります。何の教科書にも、どんな医者に聞いてもこの病気のことは書いてない。ぼくら被爆者の医者が国連へ出した報告書にはちゃんと書きました。日本語の病名で「ぶらぶら病」。アメリカでは、今そういうこととは全く別個に「慢性疲労症候群」といって、「ある日突然だるくなって働けない、重症の場合は寝たきりになる」という病気が、現在400万人の人に発症していて、そのための団体ができ、政府もその病気のことを認めて、その団体とこれを支援するお医者さんのグループに莫大な資金を拠出する段階まできています。けれども、この病気の原因については、診る医者、診る医者、みんな違うことを言う。一人も放射線が原因らしいとは言わない。あれだけ核実験やって、たくさんの原発が毎日安全な量だと称してどんどん放射線を出している。この放射性降下物が地面へ降って、食物連鎖で人々の口から入り、「慢性疲労症候群」が発症することは当然考えられる。ぼくはこの患者のビデオを見ました。患者の一人に有名なアメリカの陸上競技の選手で、オリンピックにも出たことのある人がいて、この病気になり、まだ少し元気だから仲間のところへ行っては症状をビデオに撮る。私はそれを見て、一目でああこれはぶらぶら病だ、とわかりました。原因はアメリカの核実験です。放射線なんて触っちゃいけないものなんです。
日本にもぶらぶら病患者は200万人いるそうです。私たちが苦しんだぶらぶら病が名前が変わり形が変わって、これから先、何十年か後に、皆さんの子どもさんが大きくなる間には「慢性疲労症候群=慢性に疲れる」この病気が皆さんのまわりで起こるかもしれない、皆さん自身がなるかもしれない。だけどその頃、医学が進歩して、私が今言った「放射線の微粒子が体に入って長い間に発症する、今までの医学が知らなかった病気だ」と理解できる日が必ずくるだろうと思います。
東電の原発から出る放射線がいつ止まるかわかりません。止めるのは大変難しいでしょう。あそこまで壊れて、燃料棒が放射線を外に出さずに安全であるということは、おそらくないでしょう。それが四つもあるのですから、現時点でもう相当な量が出ているに違いありません。原発から200キロくらいの範囲にはもうまんべんなく放射能が降っている。放射線を浴びた人をひとくくりでカタカナのヒバクシャと書きます。日本だけでなく、アメリカにも、中国にも、…中国の核実験はめちゃくちゃですから、ヒバクシャは増え続ける。今の赤ん坊や子どもたちが成人になるまで、放射能とは縁がなく育つということは不可能です。持っているからには売りますよ。原発を売るのが今いちばんの大きな商売でしょう。日本の商社が外国に売り込んでいます。
東北の地震と水害の被害は時間が経てば、今の広島が復興したように必ず復興します。しかしあそこに住んでいた人の放射線被害が全くなくなる日はないでしょう。どんな微量な放射能でも、それが体の中に入ってしまったら、体の中で放射線を出し続け遺伝子に大きな障害を与えます。体の外から浴びるのとは全く違うメカニズムで放射能が人間を破壊するという、原爆ぶらぶら病もそういう内部ヒバクによって起こるのです。
山崎 放射能は1ミリシーベルトでもダメ。体の中に入った放射線が起こす被害、「内部ヒバク」に先生は警鐘を鳴らしていらっしゃいます。「慢性疲労症候群」も「ぶらぶら病」なんですね。私は別のものだと思っていました。2歳で被爆した時には火傷も怪我もしなかったという肥田先生の患者さんの手記を読みました。結婚して子どもも産まれてからぶらぶら病が出て家事もできない。自分の家の二階に上がる時も夫に背負ってもらう、それくらいだるい、という症状は私には想像がつかないです。30年も40年も経ってから出る場合もある
肥田 東北の人たちが食事もないわ、ストーブもないわというひどい状況の中で、ぶっ壊れた原発からは頼まれもしないのに放射線が否応無しに漏れてくる。知らずに吸い込んで身体に溜め込んでる。それに対して「たいしたことありません」と平気で言う、嘘ばっかり。たいしたことない人もたくさんいるでしょう、だけどたいしたことになった人をいったいどうするんですか。たいしたことになる可能性があるものが、今、出てますよと言うべきです。だから一日も早くこれを止めて、……日本中の原発を全部やめさせる。我々の平和な生活を守る。核のウランだとかが流れてこないような空気にして、きれいな空にして、みんなで少々努力をする。電気が足りなきゃ我慢すりゃいいじゃないですか!死ぬよりはいいんです。だから東北の人に対するこれからの援助は、必要な物資は給付してあげた上で、もし会って話のできる人がいたら、放射線についてのこういう話をしてあげて、自分が放射線の被害と戦って、自分が長生きする努力がなくちゃだめだ。他人任せにしてきれいにしてくれろといっても、今の日本ではとてもそれはまだできない。だからまず自分の命を守って、良いといわれることは何でもやる。昔の人がやってはいけないといってきたことを守る。よく噛んで食べて、大食いをしない、少々金ができたからといって大酒を飲むなんてことはしちゃいけない。腹をくくって免疫力を落とさない努力をして長生きをする。薬はいらない。…というふうに話してあげてください。それがいちばんの援助だと思います。じゃあ、これで終わります。
山崎 「内部ヒバク」という言葉をアメリカは使わないそうです。今日、肥田先生は広島にいらっしゃいますが、メッセージが届いておりますのでご紹介します。
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山崎 「内部ヒバク」という言葉をアメリカは使わないそうです。今日、肥田先生は広島にいらっしゃいますが、メッセージが届いておりますのでご紹介します。 |
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■肥田舜太郎先生メッセージ
朗読 神山 寛(俳優座・会長代行)
『 移動演劇桜隊原爆忌へのメッセージ』
肥田舜太郎
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肥田舜太郎
移動演劇桜隊原爆忌にお集まりの皆様、ごくろうさまです。
広島の被爆医師、肥田舜太郎です。原爆忌にお招きを受けましたが広島の慰霊式のため参上できませんので、被爆死された9名の劇団員の方々への慰霊のメッセージをお送りしてご厚情にお応えしたいと思います。
桜隊隊長の丸山定夫様をはじめ、高山象三様、島木つや子様、笠絅子様、森下彰子様、羽原京子様、小室喜代様、園井恵子様、仲みどり様、9名の尊い命をうばった原子爆弾への憤りをこめ、さぞご無念だったろうと拝察して心からの慰霊の言葉を捧げます。
第一次世界大戦までは戦闘中に非戦闘員に被害を与えると、加害国は加害部隊の隊長を処罰して相手国に謝罪しました。今次の第二次世界大戦からは、意図的に非戦闘員の大量殺戮を行うようになり、戦争の様相が変わったと言われます。
最高はドイツのヒットラーによるユダヤ人のみな殺し作戦と、アメリカによる日本の広島・長崎への原子爆弾攻撃でした。前者はドイツ人の純潔をまもるためと称して600万人ものユダヤ人をガス死させ、後者は人類がはじめて開発した放射線の原子爆弾を、婦人、老人、子供が密集した広島、長崎両市の中心地に投下し、両市で20万人以上の市民を即死させ、その後数十年間に放射線後遺症の病気でさらに30万人を殺しました。
あなた方9人は原子爆弾による人類最初の被害者で、核兵器は人類と共存できないことを命をかけて証明してくださったにも関わらず、私たちはあなた方の犠牲と体験から深く学ぼうとせず、政府と大企業の「核の平和利用」という言葉に欺かれ、原子力による発電事業を安易に許して、多数のヒバクシャを作り出してしまいました。
3・11を経験した私たちはあなた方の原爆死の意味をあらためて学びなおし、放射線が人間と共存できない理由を納得して、核兵器および原発とは縁を切り、自然エネルギーに頼る持続的で平和な生活に徹することをお誓いして、慰霊のメッセージといたします。』
休息 次のページに続く……………………………
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