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| ■開会 ■司会 浦吉ゆか(青年劇場俳優・世話人) | |||||
| ■会長挨拶 神山 寛(劇団俳優座) | |||||
今、日本が戦争をする国になるか、憲法九条を護るかの瀬戸際だと思います。私は先輩の永田靖が、広島に碑を建てるためにカンパ活動をしている姿を見て、この会に参加するようになったのです。そして演劇や文化というものは、戦争とは相容れないものだということがわかりました。平和でなければ文化も演劇も栄えないのです。原爆を語る方たちも減っているそうですが、亡くなった桜隊の丸山さんたちはじめ、多くの先輩たちが、希望を捨てて無念な気持ちで、あの戦争で亡くなっていったということを、僕らは人一倍、二倍、三倍もの力で、次の世代に語り継いでいかなければいけないと思います。今年の新劇俳優協会の総会に、文学座の代表である加藤武さんがお見えになり「神山くん、桜隊のこと頑張ってやってくれよ」と言われたのが、私が加藤武さんとお話をした最後になりました。7月31日に亡くなられました。武ちゃん(加藤さん)の分までも頑張ろうと思います。桜隊の方々はじめ、演劇を愛する方々の遺志を僕らが受け継いで、日本を平和な国にしていかなければ先輩たちは犬死にしてしまったことになります。みんなで頑張りましょう。 |
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![]() ■司会 浦吉ゆか |
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■広島市長・松井一實氏からのメッセージ 朗読と紹介 青田いずみ(俳優・事務局) |
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![]() 《広島市長からのメッセージ全文》 本日、ここに「被爆70年 桜隊原爆忌 原爆殉難者追悼会」が執り行われるに当り、メッセージをお送りいたします。 1945年8月6日、一発の原子爆弾により焦土と化した広島では、幼子からお年寄りまで一日で何万という罪なき市民の命が絶たれ、その年のうちに約14万人が亡くなりました。核兵器は、人々から温かい家族の愛情や未来の夢を奪い、人生を大きく歪める「絶対悪」です。 この「絶対悪」をこの世からなくすためには、脅し脅され、殺し殺され、憎しみの連鎖を生み出す武力ではなく、国籍や人種、宗教などの違いを超え、人と人とのつながりを大切に、未来志向の対話ができる世界を築く必要があります。 そのため、ヒロシマは、世界中の誰もが被爆者の体験や平和への思いを受け止め、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現への道を共に歩むようになることを願い、様々な取組や情報発信を行ってきました。本市が主宰し、世界の6700を超える都市が加盟する平和首長会議も、核兵器の非人道性に焦点を当て、非合法化を求める動きを着実に進めることで2020年までの核兵器廃絶を目指し核兵器禁止条約の交渉開始を求める国際世論を拡大しています。 今年は、被爆70周年に当たります。皆様におかれましても、この節目の年を機に被爆者の悲願である核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向け、一層力を尽くしてくださることを心から期待しています。そうした意味で、この度「被爆70年 桜隊原爆忌 原爆殉難者追悼会」が開催されますことは誠に意義深く、その取組に対し深く敬意を表します。 また、被爆者の高齢化は確実に進んでおり、独り暮らしや寝たきりなど日常生活に介護を必要とする方が増加しています。本市としましては、今後とも国の内外を問わず、被爆者の方々の生活実態に即したきめ細やかな援護施策の一層の充実が図られるよう、関係機関と連携し、国に強く働き掛けてまいります。 終わりに、原爆犠牲者となられた移動演劇桜隊9名の御霊に心から追悼の意を表しますとともに、御列席の皆様の今後ますますの御健勝と御多幸をお祈りいたします。 平成27年(2015年)8月6日 広島市長 松 井 一 實 |
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| ■参加されたご遺族・関係者の紹介(ご紹介順) 澤田静江様(丸山定夫の姪)/渋谷眞理子様(澤田静江の子)/丸山煕様(丸山定夫の甥)/木南直樹様(丸山定夫の姪の丸山由利亜の子)/佐藤啓枝様(母の藤倉花子が仲みどりの従妹)/岡田美津枝様(父が仲みどりの従兄弟)/池田太郎様(桜隊メンバーで、忌の会事務局長であった池田生二の子)/比原育代・美代・未紗子(園井恵子の親戚) |
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![]() あの厳しい時代にも、ずっと演劇を愛して人様の心に訴え続けていきたい、という強い情熱を持って地方に移動演劇隊として出かけて行きました桜隊が、魔の8月6日の朝を、あの瞬間をどのような気持ちで迎えましたかと思いますと、本当に心が痛みます。昭和20年6月、私はまだ小学六年生でしたけれども、叔父、丸山が広島に出発するのを見送りました。いつものやさしい叔父の笑顔の中に、何か厳しい決意のようなものが感じられたのを今も覚えております。原爆のことを思いますと、人間は本当に踏み越えてはいけない一線を、ある時踏み越えてしまう恐ろしい魔性のようなものを持っている生き物なのだと、愕然とすることがございます。桜隊の九名は、その悪の犠牲となって大勢の原爆の犠牲者の方たちとともに本当に苦しみぬいて亡くなりました。そのことを決して忘れてはいけない。もう二度とこの地球上であのようなことが起こってはいけないということを、私はこの70年という節目の年に、今一度、心に強く強く思って、今日の追悼会に参加させていただきました。 |
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| ■朗読構成『桜隊の見上げた空』 (演出:神山 寛 劇団俳優座) 出演:有馬理恵(劇団俳優座) 落合佑介(テアトルエコー放送映画部) 佐藤哲也(劇団文化座) 白井真木(プロダクションタンク) 渡辺 聡(劇団俳優座) 音楽:キーボード 堀ゆかり |
![]() 落合佑介 |
![]() 白井真木 |
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![]() 渡辺 聡 |
![]() 堀ゆかり |
![]() 有馬理恵 |
![]() 佐藤哲也 |
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■お話 角田陽次郎(元・苦楽座文芸部)先ほどの朗読では丸山さん役の方が、ちょっと本人に似ていましたね。普段は冗談ばかり言って、もっと低い感じのしゃべり方でしたが、収録の時とか芝居の時にああいうような感じであったと思っています。私は日大の芸術科におりました時に、今で言うアルバイトで苦楽座の文芸部に入りました。苦楽座が邦楽座(現在は有楽町マリオンにあるピカデリー劇場の前身)で『無法松の一生』(演出 村山知義)を上演していた時です。文芸部には、僕の上に小野さんという方がいて舞台監督をやっていました。僕は使い走りをやったんです。その後、築地小劇場で『永遠の天』を上演しました。築地小劇場もまだ焼けていなかった。丸山さんは泣き男という、セリフがなくて出てくるとただ泣いている役でした。東京大空襲で築地小劇場も焼けてしまいますから『永遠の天』が築地小劇場自体の最後の公演だったんじゃないですかね。 ある日、舞台監督の小野さんに「角田、一緒に行こう」と連れて行かれたのが、当時、築地の四つ角にあった移動演劇連盟でした。その時に苦楽座に移動演劇をやれという指示が連盟から出た。そうせえという事だったと思います。小野さんはみんなと相談するからと言って持ち帰りました。仲間からは移動演劇でやろうか、苦楽座をやめてしまおうかという意見があったと覚えています。結局、芝居を続けたほうがいいということになって、桜隊が苦楽座に代わって始まったのです。私は母一人子一人で、母親を置いて広島へ行くということができなかった。小野さんも行かなかった。広島には一人だけ文芸部演出が行かなければならないのだが、誰が行くか。誰もいないわけですよ。その時に苦楽座に遊びに来ていた象ちゃんに「俺の代わりに行ってくれないかな」と言ったら「いいよ」って引き受けてくれて、彼は僕の代わりに行くことになった。このことは僕自身が……うまく言えませんが、生きている限りは背負っていかなければならないことです。僕は昨夜、待てよ、俺はあいつのことをなんて呼んでいたんだろう!と考えたら「高山」といっていたんです。大学の仲間ですからね。それで夜中に「高山」って声に出して呼んでみたら、ふっと景色が変わって…。で、今日は僕自身が知っている園井恵子さんと高山象三のエピソードをお話しします。僕は苦楽座をやめて、東宝の撮影所に入りました。おふくろを京都に疎開させて、自分は砧の百姓家の二階に下宿しました。食い物は悪いし、相当無理をしていたので肋膜になってしまったので、おふくろを呼び戻すことになった。おふくろが東宝撮影所のある成城学園に降りて、どっちへ行ったらいいかわからなくてうろうろしていたら、女優さんらしい人が歩いてきたので道を尋ねたら「東宝撮影所だったら、私も行きますからご一緒しましょうか」と言ってくれた。それが園井恵子さんでした。おふくろが荷物いっぱい背負ったり、手にぶら下げていたのを一つ持ってくださったそうで「親切な女優さんだったよ」と言っていました。「東宝のどちらへ」「音響効果をやってる角田のところへ行くんです」 「えっその方、元苦楽座にいませんでした?」「いたと思います」 「そうですか」って、旅公演の思い出話なんかをしながら音響効果のところまで送ってくれて、別れる時に園井さんが「ちょっと待って、お母さん」とメモになにか書いてくれた。その時の園井さんからのメモの中身ですが、70年も前なのでほとんど忘れちゃったんです。覚えているのは「頑張れ 頑張れ 頑張れ」と書いてあったことです。それだけは今でも強く頭の中に残っています。終戦の8月15日は、僕は東宝の撮影所で聞きました。 ![]() あと高山象三には恋人がいました。利根はる恵さんという女優さんです。象三に彼女がいることはぼんやり聞いて知っていました。象三が亡くなりまして、戦後の昭和23〜24年のことですが、目蒲線の洗足池で降りて左側へ行くと三幸スタジオというのがあるんです。その頃、独立プロ系の一流の監督はみんなそこで撮影したり録音したりしていました。当時のダビングというのは、音楽も、アフレコってセリフ入れるのも、足音入れるのも、電車の音入れるのも全部一緒にやっていたので、俳優さんと一緒だった。ある時、利根さんがいらしたので、僕は「利根さんが出てるな」と思っていました。お昼になって弁当食おうかと思っていたら、利根さんが「ちょっとよろしいですか」とおっしゃる。三幸スタジオの中の空き地に二人で行って、弁当持ってベンチに座りました。僕はその時からある予感はしていたんです。なんでかわからないけど、予感はしていたんです。利根さんは少なくとも、今で言うトップの下ぐらいのスターさんですから、それが音響効果のスタッフに声かけて、一緒に離れた場所に行くなんてありえないわけです。「お休みの時間にすみません」と言って利根さんは立っていました。「角田さんですね。昔、苦楽座にいらっしゃいました?」僕も立ち上がったら、利根さんが僕の手を持って自分の本名を名乗った。それきり黙ってなんにも言わない。ただ二人でしばらく手を握りあっていたことと利根さんが本名をおっしゃったことは覚えていますが、最後に何をおっしゃったのかは、もう思い浮かばないです。象三に関しては前にも申し上げましたが、戦後、薄田研二さんのお宅へみんなで集まった時、薄田のトウさんに「ちょっと来い」と、二階の象三の部屋に連れて行かれた。僕の肩をたたいて「死ぬなよ」とおっしゃった。いろいろな人とのご縁とか、人様の絆とかの重なりの中で、嫌な思いや辛い思いがいろいろあった中で、今ここにいます。僕も体がだいぶ衰えてきましたので、できるだけ話しておいた方がいいのでは、という気持ちになって、一昨年初めて近野さんにもお願いしてここで話させてもらいました。できれば来年も来たいと思っています。 利根はる恵さん証言:「本当に初恋の人でした。物もなんにも無い時代でしたから、デートするなんていったって喫茶店があるわけじゃなし、ただ二人で歩いたんですね。電車の駅、二駅、三駅ぐらいは平気で歩きましたけれど…。私が満州に行くとき、東京駅まで送ってきてくれて、象ちゃんがつけていた日記帳の、そのあとをつけててくれ…三か月たったらお嫁さんに貰いに行くって言って…。どうして三か月って言ったのかなって思うんですけど、朝鮮に村山知義さんという演出家が行ってらしたので、今になって考えると、きっと象ちゃんが(朝鮮に)行くというような約束があったんじゃないかなと思います。私は満州に行って、象ちゃんの日記帳のあとをずっと毎日書いていました」 (新藤兼人監督『さくら隊散る』より抜粋) |
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