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![]() ![]() 『池上本門寺は 宗祖日蓮聖人御入減の霊跡であります。開創については、寺伝は武蔵国千束郷池上の地頭で信者であつた池上宗仲より寺地の寄進を受けた日蓮聖人が自ら開倉したことを伝えています。しかしながら近年の研究では、開創を日蓮聖人入減直後の時期に求める考えが示され 、日蓮聖人入減直後に池上宗仲が邸内の持仏堂であった法華堂を拡張し、六老僧の1人である日朗に付与したのが池上本門寺の始まりであると推定されています。近世初期においては不受不施義を旨とする関東学派の拠点となりましたが、寛永7(1630)年に江戸城内において幕府主導で行われた受不施義をとる身延山との対論に敗れ、以降受不施義の拠点となりました。その後、日遠が第十六世となると日遠に深く帰依していた家康側室お万の方と、それに連なる諸侯の外護を受けるようになりました。お万の方が紀州藩徳川頼宣と水戸藩祖徳川頼房の生母であつた縁により、紀州藩徳川家の書提寺となりました。このような徳川将軍家の外護により、安定した寺院経営を行つてきました。』 (第3回特別展パンフレット『江戸狩野とその世界』立正大学博物館 2006年) | |||||||||
● 池上本門寺と江戸狩野家(奥絵師四別家) 絵師としての狩野家の成立は、狩野祐勢正信が室町幕府八代将軍足利義政の御用絵師に取り立てられることに始まります。室町幕府崩壊後、織田信長、豊臣秀吉など時の権力者に仕へ、大坂城 聚楽第、名古屋城を始めとした障壁画制作を任されていました。 江戸時代初期には狩野宗家右近孝信の子で3男である狩野永真安信が中橋宗家を継ぎ、長男の狩野探幽守信は鍛冶橋家、 2男の狩野主馬尚信が木挽町家を造り、後に木挽町家から分家した狩野随川岑信が浜町狩野家を立ち上げ、奥絵師四別家が成立しました。 |
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![]() ●池上本門寺 南之院について……
どのような経緯で南之院が菩提寺になったのか詳しい理由は不明だが、南之院の墓域には奥絵師当主や妻達の墓がある。その墓石は約90基あまりあり、宝塔の付近ほか、ほぼ三カ所に集まっている。狩野家の回向をした南之院には52基の位牌があると伝わる。 |
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●池上本門寺と狩野家について |
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●僧位(法印・法眼・法橋)を授かう奥絵師 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ●日光東照宮寛永造替における狩野派の役割 ●「もっと知りたい狩野派ー探幽と江戸狩野派」安村敏信著 東京美術刊 2006年 ●「江戸の狩野派」日本の美術 第262号 昭和63年3月15日発行 黒河内平 至文堂 ●「狩野探幽 御用絵師の肖像」榊原 悟著 臨川書店 2014年刊 |
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●狩野墓マップ | |||||||||
●『江戸・大名の墓を歩く』河原芳嗣著 平成3年(1991)六興出版刊 ●『芸文家墓所誌 東京美術家墓所誌続編』結城素明著 昭和28年(1953)(株)学風書院刊 ● 池上本門寺『池上本門寺の狩野家墓所』パンフレット 、(注)戒名はこのパンフレットによる ●『第3回特別展 江戸狩野とその世界』パンフレット 立正大学博物館 2006年配布 ●『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」』安村敏信著 (株)小学館 2008年刊 ●『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』安村敏信著 (株)東京美術 2006年刊 ●『日本の美術 江戸の狩野派 262号』細野正信 監修・文化庁・東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館 至文堂刊 昭和63年3月15日刊 ●『池上本門寺・奥絵師狩野家墓所の調査』坂詰 秀一 編 池上本門寺 発行 2004年 ● 「狩野探幽 御用絵師の肖像」榊原 悟著 臨川書店 2014年刊 ●『障屏画と狩野派』辻 惟雄集 第三巻 岩波書店 2013年刊 ●『探幽・守景・一蝶』江戸名作画帳全集4 小林 忠・河野元昭監修 駸々堂出版 1994年刊 ●『狩野派の三百年』東京都江戸東京博物館編 平成10年刊 ●『池上本門寺 奥絵師狩野家墓所の調査 』前 立正大学学長 坂詰秀一編 池上本門寺発行 平成16年刊 ●『狩野派絵画史』武田恒夫著 吉川弘文館 平成7年刊 ●『巨匠 狩野探幽の誕生 江戸初期、将軍も天皇も愛した画家の才能と境遇』門脇むつみ著 朝日新聞出版 2014年刊 ●『原色日本の美術 第十七巻 浮世絵』 小学館 昭和43年刊 |
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