鎌倉時代の水運は平安末期から発達し、年貢の輸送に使用された 水運ー2.
 
平安時代末期 常陸国から鎌倉への水運を推理する…水運2.


前ページにも記述したが、常陸の国より内海を船で運ばれた物資は関宿に集積されたようだ。関宿(現在の野田市)は太井川と古利根川に挟まれた位置にあり、南北朝時代より使われた水の道でした。南北朝時代より、下総国の一宮である香取社は水運の関銭を徴収する権利を持ち、関所は猿股・戸崎・大境・行徳にあり、特に行徳は太井川河口部東岸にあり、西岸の長島・今井とともに川舟と海舟との荷の積み替えが行われた。(参照「江戸東京を支えた船運の路―内川廻しの記憶を探る―」難波匡甫著 法政大学出版局 2010年3月31日)

古利根川の流域・川辺荘は、鳥羽天皇と美福門(びふくもん)院との皇女八条院【しょう】子(しょうし)が,主として父母から伝領した荘園群であった。この辺りは皇族の荘園が200カ所ほどあり広大な面積であった。『 年貢は川舟で古利根川を下り、今戸で川舟から下ろされ、そこで売却されるか、海船に積まれて六浦(むつら)まで運ばれ、陸揚げされた。』(参照「東京都の歴史」山川出版)拡大表示 

中世の頃、石浜一帯は交通の要衝でした  中世では、今戸は今津と言われた。『永享11年(1439)の「赤岩十四個村米結解状」(金沢文庫古文書)という史料によれば、「問」という港湾業者(回船問屋)がいた』ことがわかります。この史料は金沢称名寺の寺領の年貢米に関する史料です。『下河辺庄赤岩郷は、現在の埼玉県北葛飾郡松伏町あたり、その年貢は、古利根川の水運で運ばれ、今津で隅田川を経由し、六浦で陸揚げされ称名寺に運ばれた。』(葛飾区郷土と天文の博物館シンポジウム報告書『東京低地の中世を考える』1995年刊)

平安時代より、多摩川上流にあった摂関家の荘園「船木田荘」の年貢は、船で下流六郷まで運ばれた。この仕事をしたのが六郷にいた常陸国の桓武平氏である多気大掾氏の一族・庶流ではないかと考える(私見)。

  ●武蔵野国の摂関領「舟木田荘園」など

−武蔵野国の荘園 鎌倉時代中頃ー 
1.稲毛荘(一条家預)年貢国絹393疋3丈准銭78貫余
2.舟木田新荘(一条家預)年貢零500段
3.舟木田本庄(光明院忌日用途料)布520反
『中世水運市の研究』新城常三著 塙書房 平成6年刊

  舟木田荘とは……
  ここは、皇嘉門院藤原聖子から藤原忠通に譲られた摂関家領荘園であった(九条家文書)。南北朝期には京都東福寺に寄進されたが,東福寺に残る文和年間と貞治年間の年貢算用状によれば,荘内には平山郷,中野郷,由比野郷,大塚郷,南河口郷,北河口郷,横河郷,長房郷,由木郷,豊田村,青木村,梅坪村,大谷村,下堀村,谷慈村,木切沢村があり,当時の年貢高は、本荘38貫600文・新荘34貫300文の計72貫900文であったと言われる。その位置は、現在の八王子市東部から日野市一帯に比定されている。(参照・八王子市資料)

  八王子市白山神社経塚から発見された文章「仁平4年9月日付如法経奥書」に「於武蔵国多西郡船木田御庄内長隆寺書写了」とあるのが初見である(八王子白山神社蔵)。

  治承4年5月11日「皇嘉門院惣処分状」に「むさし ふなきた本 新」とあり,皇嘉門院藤原聖子から藤原忠通に譲られた摂関家領荘園であった(九条家文書)。建長2年11月の九条道家惣処分状2通によれば,前摂政一条実経家領として「船木田新庄 地頭請所」,右大臣九条忠家に「武蔵国船木田本庄 地頭請所」が譲られている(九条家文書)。
 
また延慶2年11月8日の報恩院殿備忘条々なる文書に「家領奉行人々,二条前中納言頼藤卿,村田庄 舟木田庄 地頭請所」と見え,摂関家はすでに地頭請所となっていた船木田荘を、下級貴族に管理させていたことが知られる(九条家家領文書)。この下級貴族が、前述の常陸の国の桓武平氏であろう。
  その後,南北朝期には京都東福寺に寄進されたが,東福寺に残る文和年間と貞治年間の年貢算用状によれば,『荘内には平山郷,中野郷,由比野郷,大塚郷,南河口郷,北河口郷,横河郷,長房郷,由木郷,豊田村,青木村,梅坪村,大谷村,下堀村,谷慈村,木切沢村があり,当時の年貢高は本荘38貫600文・新荘34貫300文の計72貫900文であった。』
 
  応永26年3月6日,東福寺雑掌は梶原氏・平山氏等「南一揆輩」が年貢を抑留したと室町幕府に訴えており(東福寺文書)、当時,舟木田荘の現地支配は梶原氏・平山氏等在地土豪にゆだねられていたことがうかがえる。この頃より荘名は見えなくなっており,彼ら中小土豪の侵略によって,荘園としての実体は失われていった』(WEB・八王子市史より)

六郷河口に常陸桓武平氏の一族がいた。  
  この舟木田荘園は木材が豊富な地であるらしく、年貢として木材は、多摩川を筏に組まれ多摩川河口に運ばれた。この物資の輸送を担ったのが、古くより、多摩川(六郷)河口に住んでいたと思われる、常陸国の桓武平氏である多気大掾氏
の庶流ではないかと考える。

前九年・後三年の役で奥州に向かう源頼義・義家親子が常陸の大椽・多気維幹に参陣せよとの連絡するため、六郷河口に源氏の白旗を掲げたと考える。後に行方弾上を名乗る一族であると考える。(私見)